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温泉紀行、その-2(幸せの国 ブータン王国から、温泉再興依頼!)

ブータンの大臣から台風の被害で潰れた温泉地の復興プラン作りを頼まれた。世界の富裕層が憧れるブータンに有馬温泉の名前が刻まれるチャンスがあるなら行こか!っと有馬の仲間と行ってきた。

ブータン王国とは

世界の富裕層が憧れるというブータン。九州を横にしたぐらいの大きさの国。ヒマラヤ山脈から流れ出る水を活用して水力発電を行い、電気をインドに売る事で成り立っている国。

昭和天皇が亡くなった時に各国から弔問団がやって来た。ブータン政府の人々も弔問に訪れ、帰ろうとしたら日本政府関係者が「もう帰るのですか?他の国の様にODAなどの話をしないのですか?」と言ったという。するとブータンの人達は「私たちは弔問の為に訪問したのであって、物乞いに来たのではない」と言ったそうだ。ともかくかっこよいと思う国だ。

阪神淡路大震災から15年。世界災害フォーラムが神戸で開催された。だから2010年の1月17日の翌日だったかな?ブータンの大臣一行が有馬温泉の視察に来ることになった。話を聞いてみるとサイクロンだから台風でブータンの温泉が崩れてしまった。それで再開の為の協力をしてくれないかという要望をされた。協力と言っても再建案を考えてくれという話だった。

でも見ないとわからない。というと「いつ来る? 来月か?」と言われたので、3月に行く約束をした。

ブータン王国への行き方

インドからの陸路もあるが、タイのバンコクからロイヤルブータン航空で行く。関空を昼前の飛行機でたち、夕方にバンコクに到着。翌日の朝5時半のフライトだから夜中の2時ごろに起きて空港に行った。

関空からバンコク往復は5万円強で行けるが、バンコクからブータン往復は8万5千円ほどしたのと仮眠のホテル代を入れると、ヨーロッパに行くぐらいの旅費がかかったという事になる。

雲海の中からヒマラヤの山々が山頂を突き出している光景は今まで見た事がない。そして標高4000mの山々に囲まれた空港に着陸する際は、フラップをいっぱい降ろして、エアーブレーキを出して急旋回して家より低い所を飛ぶのも初めてだ。

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そして飛行機はブータンの国際空港のあるパロに着陸するのだが、滑走路の端ぎりぎりで泊る。そこでUターン。翼端がフェンスに接触しそうなぐらいだ。普通の空港に着陸しているパイロットでは怖くてよう着陸できないのじゃないかと思った。

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空港のターミナル。

日本人のおじさんやおばさん達の観光客の一行がいた。しかし税関のルートは我々は素通りだった。おばちゃんたちは、こいつら何者だ!というような顔をしていた。だって大臣が入国の際に我々のパスポートに直接サインをするのだから。

おばちゃんたちはマイクロバスだったが我々は4台ほどのランクルに2人づつ分乗して、小一時間かけて首都ティンプーへ

ホテルにチェックインして昼食をゆっくりとって、夕方は大臣主催の歓迎パーティー・・・・

ブータンの温泉へ

翌朝早くホテルを出発。温泉のあるガサまで車で5時間。そこで車を降りて歩いて2時間ほど・・・

ティンプーを出発して、まず3000m級の峠を越える。富士山を車で越えるみたいなものだ。六甲山を車で登る3倍か・・・と揺られながら計算した。峠の山頂で同行していた僧侶が安全を祈願して祈りをささげた。

ブータンは鳥葬で松の枝を燃やし、そこに死者の髪の毛を燃やす事で臭いにつられて鳥が集まるという。

峠を下る時に、ブータンのシンボリック的な動物。ターキンの群れに出会った。

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事前に調べたプナカに到着した。有名な場所だ。
ここにはアマングループのホテルがある。アメリカ人のシェフの給料が、ホテルで働くブータン人すべてを合わせた給料と同じだと言っていた。

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プナカゾーンという写真でよく見る場所に着いた。六甲山のドライブウェーを3倍登り降りた感じで、出発から2時間半ぐらいかかったと思う。

この地点からさらに1時間車で走り昼食。簡単に昼食といってもレストランがあるわけでない。公園の管理事務所みたいな所で昼食を取る。我々がホテルを出発する前に食糧一式と調理係が出発し、昼食の準備をしてくれるのだ。
 ブータンでの食事のスタイルは、まず到着して甘いミルクティーかバターティーを飲む。その時に甘いビスケットが一緒に提供される。

基本的に食事は、ご飯とおかずが何皿か並べられている。ご飯を皿に取り、好みのおかずをご飯に添える。トウガラシを多用するので辛い品が多い。ゆっくりと昼食を取り、車に乗り込む。ここから約1時間はガタガタ道の山道を進む。
時々爆発音がする。ガサ温泉までバスが行けるように道をつくっているという。しかしここは有馬のロープウェーから六甲山にむかう道のように、岩質はもろくいつ落石があってもおかしくない。

急に車や人が現れた。運転手が向こうの山間の谷間を指さす。「あそこがガサだ!」ここから歩かなければならない。道はフラットだから30分もあれば十分いけるという。でもブータンの人のフラットは我々日本人と感覚が違う。どう見ても六甲山頂から有馬温泉に下る感じの道のり。ブータン人の30分の道のりは我々の1時間。実際それぐらいの時間がかかった。

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本当に山の中。ところがガサ温泉のゲートに近づくと子供たちが出迎えてくれた。ここに至るまで人家はない。どこから来たのだろうか?

ブータンで印象的だったのは道を歩いている子供たちの笑顔が素晴らしい!

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ガサ温泉は川のそばにある。黄色いテントの様な所が温泉!

いかに土砂崩れで滅茶苦茶かわかるでしょう。

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我々の泊まる場所。王族や国賓の為の宿舎!

・・・でもね 便所は水があふれているし、まあ水洗だと思えば良いが、リネン類が生乾きで臭いのには閉口した。

でも同行の人達は、この庭にテントを立てて泊まるんだよ!
そしてこの建物の右手に台所があり、我々より早く着いた人たちが夕食の用意をしていた。

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ゲストハウスの手前に溝があり、生ぬるい湯が流れている。左手の山の裾野からその水が出ている。
水が出ている所に行って確かめた。わずかに硫黄臭がして、口に含むと炭酸を感じた。この水はパイプでブータン式の浴槽に注がれている。薬効なある水を浴槽に貯めて、焼いた石を入れて温める。古典的なブータン式の入浴方法。

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ガサはブータンの人々にとって、歴史的に重要な地で聖地のような存在だという。
ブータンの主要な産業は農業。人々は収穫を終えると、2日間ぐらい歩いてここにやって来てテントをはり家族で長期間滞在するという。

昔の有馬も大阪から2日間ぐらいかけてやってきたのだ。我々は王様のゲストハウスに泊めてもらうことになった。日本人でガサ温泉に来た人は少数だと思うが、国王のゲストハウスに泊まったのは日本人では我々が最初ではないかと思う。
一階には4室の部屋があり、トイレも付いているが一人はベット、もう一人は布団で。
同行した人たちは庭に貼られたテントで寝るようだ。

ガサ温泉へ入浴!

夕食までの間に河原に設けられた仮設の露天風呂に行くことにした。ガサの知事が晩は何を飲むかと尋ねたので、いつものようにビールと答えた。ちょっと困った顔をしたがポケットからお金を取り出し、お付きの者に渡して何やら指示をした。あとでわかった事だが車を停めた所まで引き返して大瓶のビールを1ケース買って来させたのだった。有馬から魚屋道を六甲山まで上がって往復してきたことになる。申し訳ない事をしたなと後悔したが後の祭りだった。

まわりに人家が全くないので、どこから来ているのかわからないが、水着着用の露天風呂にはけっこうな人たちが既に入っている。我々は水着を持っていない。下着の替えを持って来ているので、柄パンツであればブータンの人達には水着のように思われるのではないか、。という結論に達した。左手に簡単なテントを張った露天風呂が見える。その右側は急流が流れている。そのさらに右手に見えるのは吊り橋の基礎だった。
つまり水害で川の位置が変って、本来吊り橋の下を流れていた川が左手の川岸を侵食したのだ。そして現在川の流れている場所は河原で、人々がテントを張り長期間湯治をしていた場所だ。

流された温泉の元を掘り出し、現在一カ所だけ簡単な浴場にしている。崩れそうな崖を伝いながら川底に下りて行った。崖を見ると所々岩石が赤茶色くなって水がしみ出している。さわると温かい。炭酸系の温泉だから岩石が赤茶色くなるのだ。ガサ温泉に到着した時に歓迎門にいた少女達が入っていた。最初は「誰だろう?」という目で見ていたが、だんだん近づいてきて人懐っこい笑顔で微笑みかける。

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何処から来てどこに住んでいるのだろうと思う程、人々がいる。一応水着を着用しているが、幼い子供たちはスッポンポン!

湯を掛けたりして遊ぶのは万国共通。そのうち彼女達の家族も加わり、ガサの区長などもやって来て、ワイワイガヤガヤ温泉に入った。
適度な運動と疲労感自然がいっぱいで知らない人たちと入る温泉は最高だった。

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本来の日本の温泉はこうだったろうと思う。日本人としての郷愁に浸った。
今なら幼い女の子達と入るとロリコンや変態に思われる。そんなことを気にせずに、温泉の醍醐味を味わえた。

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岩の間から弱塩泉の温泉が湧いている。

浴槽の崖側は温度が高い。そこへ川からの水が流れ込み丁度よい湯加減となっている。
湯を口に含んでみた炭酸系の弱塩泉。つまり炭酸ガスの効果で簡単に温もることができる温泉という訳だ。ブータンは農業国。収穫の終わった人たちが沢山来るのでこの浴槽だけでは足りない。また危険だ。
いくら転生輪廻を信じている仏教国で生まれ変わるといっても、一緒に入っている幼い子供たちの頭上に岩石が落ちてきて事故が起こったらどうするのか!?
温泉に入りながら、ガサの人達の復興の思いを聞きながら、いったいどうしたら良いのか……。

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ガサ温泉の夕べ

前夜の首都ティンプーでの大臣主催の晩さん会では、ブータン美人が日本の盆踊りのようなテンポの踊りを踊って歓迎してくれた。
夕食後「キャンプをする」というので裏庭に集められた。
どこから人が来るのだろうという感じで人が集まってくる。周りには人家が無かったのに……。
聞くとガサゾーンという歩いて1時間ぐらいの所から、まっ暗い夜道を歩いて集まり、終わると帰るというのだ。有馬温泉で歓迎会が開催されるとすると六甲山から歩いて参加して、終わると歩いてまた帰るといったようなものだ。


ブータンは緩やかな近代化を進めている。旅行者が不用意にモノをあげたり、わずかな金でブータンの骨董品と交換するのを禁止している。 アーモンドチョコレートぐらいだったら大丈夫だろうと、一緒に温泉に入っていた子供たちも参加していたのでプレゼントし、仲良くなった。夜遅くまで歓迎のブータン式盆踊りは続けられた。


ヒマラヤ山脈の地理を見ようとグーグルアースで探していた。ヒマラヤ山脈は見事な弓型をしている。インド大陸の陸のプレートが、ユーラシア大陸の陸のプレートの下に沈み込み盛り上がっている様子が良くわかる。そのヒマラヤ山脈の中心に小さなブータン王国を見つけ、ガサ温泉を探した。水害でやられる前のガサ温泉の姿が映っていた。


ブータンの人達の歓迎を受け、いったい我々はどのような提案が出来るのか!焦りのような思いがこみ上げてきた。
ブータンは仏教国なので温泉の利用の仕方や成り立ちや歴史が日本の温泉と非常によく似ている。有馬温泉とも色々な共通項を見出すことができる。
しかしヒマラヤの雪解け水の圧倒的な水量の川。人間の力で立ち向かうことができるのだろうか?
そこで……日本の数寄屋の考えが頭に浮かんだ。
これはアジアの風土に合った思想だと思うが、自然に立ち向かうのではなく、自然にまかせる。流されたら又簡単に復旧すれば良いではないか!
プランを夜中にまとめ、翌朝必要な写真を撮りパワーポイントの資料にある程度まとめた。

ガサの温泉は断層から湧き出る温泉の為に色々な種類の温泉が湧く。ここは鼻が詰まった時に、嗅ぐと治るという穴。硫化水素やん!
吸い過ぎると死んでしまう。でも少しだと効くみたい。

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帰る途中「もう一ヶ所 水が出ているよ……」というので、寄り道した。
飲んで見たら、まさしく有馬温泉が無くした昔の美味しい“炭酸水”だった。
皆に飲まそうとボトルに詰めて、後を追いかけたブータンの人達はゆっくりなのか急いでいるのかわからない。途中プナカゾーンに寄り見学をした。大臣の通達書があったので普段観光客が立ち入る事の出来ない場所でバターティーの歓待を受け、その後町中のレストランで昼食をとった。

帰り道、プナカのお寺でバターティーをよばれた。よっぽどのゲストにしか出さないと言われている。でも僕は正直、夕方大臣の前で復興の為のプレゼンをしなければいけないので、時間がない!
3000mの峠を曲がりくねっている時もパソコンを触っていた。

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夕方、5時 ブータン政府の建物の中の会議室で大臣相手にプレゼンを行った。ガサの県知事も正装で臨んでくれた。

復興策はお金を掛けないA案、お金をかけるB案の二つを提出した。大臣からは時間がないのに良くやったねとねぎらいの言葉をもらった。

その晩は旅行社の家に招かれ食事をごちそうになり、翌日は昼過ぎにバンコクへ戻り、その晩の便で関空へ

バンコク半泊、ティンプーで1泊、ガサで1泊、ティンプーで1泊。飛行機で1泊。けっこう強行軍だった。

以来、有馬では「ブータンより良いのだったら行くよ!」と言われている。彼らにとっては記憶に残る旅だったと思う。

その後、ブータンの技術者が有馬を訪れてきっちり温泉の勉強をする機会を設けた。ちょうど王様が結婚する前のことだ。プナカの県知事は「王様が結婚式でプナカを訪れるので花を飾りたい。」っていってホームセンターでたくさん花の種を買って帰った。

ブータンの技術者たちとは今でもFBでつながっている。

そしてブータンのガサ温泉は復活している。アドバイスの痕跡があるかどうかは知らない(笑)

2010年3月の話。

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