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「はじまりはいつも雨」の歌詞に、初めて向き合ってみた。

雨をハッピーに描いた名曲、と言われるASKAの「はじまりはいつも雨」
なんとこの曲が世に出てから、今日で丸々30年である
30年って!!
時の流れに身を任せてたら、あっという間に人生が終わってしまいます…。


あの頃はまだ小学生で、愛の「あ」の字も知らなかった私。
ただただ美しい曲調と、ASKAの独特な歌声に心惹かれ、チャゲアスを本気で聴くようになったんだっけ。

でも。
あれほどに有名な曲って、大抵の場合は最初に聴いた時のインパクトがMAXで、その後はそこにあって当たり前の、美術の教科書に載ってる絵みたいになってしまうのだから勿体無い。
100点なんだけど0点、みたいな。
この表現が失礼ならば、「空気のようにいつもそこにある存在」と言ってもいいのかもしれない。
高品質な空気をいつも吸えていて、ああ、ASKAの音楽って贅沢、といつも思う。


そんな「はじまりはいつも雨」だけれど、この曲、虫眼鏡を使ってよく見てみると、ASKAがASKAであるところのすべての要素がギュッと詰まった、かなり高密度な、それこそいわゆる「珠玉の名曲」であることがわかってくるのだ。

音楽サイドの読み解きは、先日別の記事にて音楽家の野井洋児さんに、サビ部分だけ詳しく解説していただいた
ぜひご興味ある方、下の記事を読んでみてください。

そして今回は、私にできることとして、歌詞サイドからこの「はじまりはいつも雨」がいかに名曲なのかについて、存分に語っていきたいと思っている。
もちろん、曲の解釈に正解などなく、あくまでも私のメガネを通して見えている世界。
話半分、暇つぶしにサラーッと読んでみて下さいませ。

●「愛」って、なんなの?

ところで皆さん、改めて聞きますが、「愛してる」って日常でうまく言えますか?
私は言えません。そして、それができる人がとてもうらやましい。

「愛してる」を言えない理由の一つは、照れだと思う。
「好き」とか「大事だよ」という言葉は私でもよく使うが、「愛してる」というのは使ってるロールモデルがドラマの主人公とか、とにかくキラキラした恋愛のイメージで、それを流用して自分の日常に使うことに照れがある。

そしてもう一つ、もっともっと大きな理由というのが、実際に自分の「愛」が本当に「愛」なのか、よくわかってないからなのでは、と思うのだ。

愛がわからない、なんて非道極まりない人間のようであるが、もちろん私にだって胸のうちに、ちゃんと愛はある。
自分と同じ、もしくはそれ以上に大事に思う、愛する人達だっている。
だが、たまに思うのだ。
(私の愛、大丈夫かなぁ…)と。


自分の愛に自信が持てない時、それは大抵「相手が欲しいと思っている愛と違っている時」だ。

例えば、私はそっとしておくのが愛だと思っているとする。
だが相手はグイグイ来てもらう方が愛を感じるタイプ、とする。

そうなると、私は私なりの愛でそっとしておいてるのだが、相手は相手なりの愛に照らし合わせて、愛の不足を感じてしまうのだ。
「全然愛されてない」か、「この人はそっとしておくのが愛だと思ってるっぽいけど、実際寂しい…」という不満が、いつのまにか相手側に積もっている。
これ、立場を逆にしても然り。

なので、「愛してる」とたまに勇気を奮って伝えた時にも、「ふふん、そんな言葉だけで」という態度を取られてガーン…ということ、みなさん経験ありませんか?
「愛してるよ」と言われても、心はうら寂しい、なんて経験は?
ない?
それは羨ましい。

私はやっぱり思ってしまう。
愛は相手あってのものだと思うが、そのキャッチボールはとにかく難しい、と。


うーむ、そう考えると愛って一体なんなのか。
やっぱりこれは人生のテーマにもなり得るほど大事なものなので、愛をうまく伝えられる人に、ぜひとも私はなりたい。

青春まっさかりの頃は、「私が愛してるんだからこれが愛!」なんて主観的な一択プランでごり押していけたものの、やっぱり大人になると、こういうことにきちっと向き合っていかなければ乗り越えられない場面もある。
相手を最大限に思いやってこそ、叶っていく幸せもある。

そんな、大人が誰しも持ち得るような「愛について迷ってしまうんですが…」という悩みを真正面からテーマに据えているのが、この「はじまりはいつも雨」だと思うのだ。

だから大人になった胸に、刺さりまくってしょうがない。
小学生、いや思春期、20代になってすら、私はこの歌詞の魅力に気付けていなかった。


●「はじまりはいつも雨」は、愛に迷う大人の歌

「はじまりはいつも雨」を聴くと、いつでも「ああ、迷っていいんだ、大人だもの」と相田みつをのような、豊かな気持ちになる。

その歌詞に描かれているものは、「愛の迷い」そのものである

主人公の男は、「こんなにも愛してる、でもこの愛でいいのかい?」という問いかけを、自分に、そして相手に、始めから終わりまで繰り返す。
その、揺らぐ大人ゴコロの詰まった歌詞を、ぜひ今一度じっくり見てみよう。

「はじまりはいつも雨」

<A>
君に逢う日は 不思議なくらい
雨が多くて
水のトンネル くぐるみたいで
しあわせになる


<B>
君を愛する度に 愛じゃ足りない気がしてた
君を連れ出す度に 雨が包んだ


<A>
君の名前は 優しさくらい
よくあるけれど
呼べば素敵な とても素敵な
名前と気づいた


<B>
僕は上手に君を
愛してるかい 愛せてるかい
誰よりも 誰よりも


<A>
今夜君のこと誘うから 空を見てた
はじまりはいつも雨 星をよけて



<A and B>
君の景色を 語れるくらい
抱きしめ合って
愛の部品も そろわないのに
ひとつになった


<B>
君は本当に僕を
愛してるかい 愛せてるかい
誰よりも 誰よりも


<B>
わけもなく君が 消えそうな気持ちになる
失くした恋達の 足跡(あと)をつけて



<A>
今夜君のこと誘うから 空を見てた
はじまりはいつも雨 星をよけて
ふたり 星をよけて


※<A><B>は筆者による追記。


美しい歌詞に余計な<A><B>を付け加えてしまったが、このA、Bはそのまま<幸せ><不安>をパート分けする印である
このようにきれいに幸せと不安を行き来する歌詞は、なかなか珍しいのではないか?と思い、敢えて構成に注目してみたのだ。

見返してみると、曲の一番は幸せの方が勝っている。
「ほら、今こんなにいい恋をしてるんです。これ、一生寄り添えそうな相手でしょ? でもね、ちょっと彼女を満足させられてるか、不安なんですよね…」
なんて感じだろう。

ところが二番になると、徐々に不安にスポットが当たってくる。

愛の部品も そろわないのに
ひとつになった

この歌詞は、一番の歌詞にある、

君を愛する度に 愛じゃ足りない気がしてた

と同じ感情を描いているようだ。
そしてその感情こそが、この曲のテーマ…先ほど私が力説した「この愛はあなたの求めてる愛と同じなのだろうか? 問題」であろう。

「足りない」「そろわない」というネガティブな表現で、彼女との幸せな関係に、一抹の不安を感じている男。

ネットでいろんな歌詞分析を見ていくと、やはりここに注目が当たり、「これは道ならぬ恋の歌だ」とする解釈も見かけたりする。
「世間一般的な愛ではない」という風に…うん、確かに読み取れそうだ。

だが前提として、そもそも「愛の部品が完全に揃う」状態など、人と人との間にあるのだろうか?
むしろASKAはこのテーマに注目してこの曲を書いたのではないか、と私は思うのである。

一度は「揃った」と感じられた関係であっても、その日その日を重ねるうちに、心というものはくっついたり離れたりを繰り返すものである。
(ファンの中には、チャゲアスの同年の名曲「tomorrow」の歌詞を思い出す方もいるだろう。そのような繊細な心情はこの時期のASKAの、重要なテーマだったに違いない。)

ふたりの間で、愛が満ち足りる、愛の部品が揃う…そんな完璧な一体感など、果たして起こるのだろうか?
愛が揃うこと、それは奇跡。
だが人は、そこを目指して歩く。
いつでもそこを、求めてしまう。


●ASKAの歌詞で何度も描かれる、「揃わぬ愛」

こんな風にして<不安>の解像度が高まってくるのが二番だ。
サビのとどめには、

わけもなく君が 消えそうな気持ちになる
失くした恋達の 足跡(あと)をつけて

なんて過去の恋で受けた傷までが顔を出す。

男はきっと、「愛が揃ってるか問題」による別れが、今までの恋愛遍歴でパターン化してきているのだろう。
そりゃ、めっちゃ不安になるよね。
わかる。


ASKAは'90年代に至るまで色んなタイプの別れの歌を作ってきているが、意外にこの「愛が揃ってるか」系のテーマがチラチラ見えたりするのだ。
おそらく、この問題をテーマに据えるとラブソングはグッと奥深くなる、という嗅覚を、作家として持ってらっしゃるのではなかろうか。

わかりやすいものを挙げると。

僕がとても 幸せだから
君もそうだと思っていた
「さようならの幸せ」('85)

この恋もきっと「愛が揃っていなかった」のだろうし、

Far Away
それは Far Away
信じ合うよりも ずっと ずっと

どんな愛がいいの

「Far Away」('88)

名曲「Far Away」においては、愛の不一致そのものがテーマ。
ここで描かれるのは、愛し合っているのに否応無しの力で別れへと押し進められていく、悲しい男女の姿だ。

ちなみに、「Far Away」は歌詞のテーマや比喩力が神がかっていて、ASKAの歌詞を考える上では外せない一曲、ということに異論のないファンも多いだろう。

その後のラブソングの種が全部ここに詰まってる!と勝手に興奮した私は、非常に主観的な勢いで、記事にしたことがある。
勢い余って、前後編の二本立てだ。
胸焼けしない自信のある方は、ぜひどうぞ。


こんな過去曲を挙げてまで、一体私が何を言いたいのかというと、

失くした恋達の 足跡(あと)をつけて

というフレーズから想起できるような悲しい別れの理由は、ASKAがラブソングにおけるテーマとして、'91年に至るまで描き続けてきたものなのではないか、ということ。

そしてそのテーマが、今回は別れの曲の中ではなく、逆に幸せな曲の中にギュッと濃縮されたことで、普遍的な、誰もが気持ちよく聴けるラブソングとして昇華されたのではないか、ということなのである。


●なぜ「はじまりはいつも雨」は幸せな着地を見せるのか?

そう、この「はじまりはいつも雨」は、改めて言うが幸せなラブソングなのだ。

愛してるのに愛が伝わらない。
自分が確信を持ってまっすぐ進んでいる道が、実はこの先、二股に別れてしまっていたら?
「信じてたのに、自分の愛って一体なんなんだ…」ということにならないか。
これは恋愛において、一番自尊心を失うパターンである。


そんなヘビーな不安を描いているのに、なぜ「はじまりはいつも雨」を聴いた後の感情は、見事に幸せサイドに着地するのだろうか?

歌詞にはっきり書いてあるのだろうか?
いや、最後に繰り返されるサビには、幸せどころか、感情がどこにも描かれていない。

今夜君のこと誘うから 空を見てた
はじまりはいつも雨 星をよけて
ふたり 星をよけて

なんて不思議な歌詞なのだろうか…。
見つめれば見つめるほど、意味が遠のき、こちらは白目になってしまう。
なのになぜ私達はこのサビを、幸せ色でうっとりと聴いてしまうのだろうか?


よく考えると、このサビから<幸せ>オーラを醸し出しているのは、「雨」と「星」という非常にロマンティックな事象である。

「雨」「星」だなんて、随分と使い古されてきた単語である。
だがこの曲では、この「雨」「星」に、他の楽曲では見られぬような際立った個性が与えられていることにお気付きだろうか?

そんなわけで、ぜひこの「雨」と「星」が、曲中でどのような役割を託されているのか、詳しく見ていこうではないか。


●幸せマジック① 「雨」

「雨が嬉しいと初めて感じさせてくれた名曲です」という紹介コメントを、テレビやラジオで私は何度も聞いてきた。
そう、この曲で描かれている雨は、幸せの雨だ。

君に逢う日は 不思議なくらい
雨が多くて
水のトンネル くぐるみたいで
しあわせになる

この曲では冒頭でしっかりと、この雨が「しあわせ」であると強調してくれているのが素晴らしい。
ここでしっかり「しあわせ」に杭を打っておかないと、これから続く不安の荒波に、聴く者の感情は持って行かれてしまうであろう。

雨というものは、ASKAに限らず多くの楽曲において、「苦境や逆境、それに追い打ちをかける雨」という象徴的表現でよく使われている。

だが「はじまりはいつも雨」では違う。
ここで描かれる雨は象徴ではなく、「君をデートに誘おうとするとなぜか降り出す雨」という、ごく個人的なエピソードであるがゆえに、際立った個性を持つ雨なのである。

普通、デートのたびに降り出す雨は嫌な雨だ。
だが男は、この雨が降るたびに「しあわせ」を感じる。

それは、「水のトンネルくぐるみたい」に二人の距離が縮まる、というだけでなく、もっと運命的なレベルで、「この恋を、どうやら神様が見守ってくれている」という、淡い期待を抱ける雨だからである。

男は、色々な恋愛を経てきた過去から、「愛」というものに正直迷いを感じている。
そこに現れた「優しくて素敵な」君。(この形容詞が直接「君」にかかっていないのが、とても巧妙で詩的なところだ。)

君の名前は 優しさくらい
よくあるけれど
呼べば素敵な とても素敵な
名前と気づいた

こんな風に、ごくささやかな奇跡、ささやかな喜びを見出せるような恋に、男はとても安堵し、幸せを感じている。

このまま二人でずっといたい。
それなのに、もしかすると気づかぬ内に、またいつものヤツを繰り返してしまうのではないか?
ふと顔を覗かせる、不安。

だからこそ、この男にとっては「彼女を誘うたびに降り出す雨」が重要なのだ

どうやって、愛を結んでいこうか…。
わからないけれど、神様が見守り祝福してくれているのなら、この恋は大丈夫なんじゃないか…。

そんなロマンチックで神秘じみた想像をすることで、男はこの恋への根拠のない安心感を手にしているのだ。

今夜君のこと誘うから 空を見てた

神様が見守ってくれている、そんなサインの雨が降り出さないかな…と、男は神秘の幸福感に胸を満たし、空を見上げているのである。

●幸せマジック② 「星」

さて、もう一つの「星」である。
曲中で3度も繰り返される「星をよけて」だが、これ、ちょっと不思議なフレーズではないか?

だって、この曲の男は「今夜」君を誘おうとしてるのだから、見上げているのは昼か夕刻の空。
万が一夜であってもそれは雨が降り出しそうな空であり、リアルな星は目の前に無いはずなのだ。

では、ASKAはこの言い回しで、何を表現しようとしているのか?

①星=恋を無くしてしまう運命

はじまりはいつも雨 星をよけて

この「よけて」の主語を考えてみれば、それは直前にある「雨」だろう。

いつもは満天の星が散る夜空を、分厚い雲が覆い隠す。
だから雨は、いつもは見えている「星をよけて」降る。

見えない「星」を雨に添えることで、大きな天球に包まれているイメージを想起できるのだから、歌詞世界に奥行きを作る、実に効果的なフレーズだ。

そしてASKAの多くの歌詞に出てくる「星」の使い方を考えると、もう一つの意味を乗せているであろうことも感じ取られる。
昨年、ASKAの今の信念を込めたようなシングル「自分じゃないか」に使われていた表現、

七つの星たちの願いを受けながら

というフレーズだが、これは発売直後のインタビューなどでも語っているように、人間は星の動きに影響を受け続ける存在、という思いを込めているようだ。
「運命」の比喩として、このようにASKAは度々「星」を用いる。

では、「はじまりはいつも雨」に描かれている運命とは何か?と考えてみれば、これは先ほど触れた「過去の愛のトラウマ」だと解釈すると自然だ。

君に逢う日は不思議なくらい、星=悲しい運命をよけた雨が自分達を包んでくれる。
こんな星の描き方、非常にロマンチックではないか。


②主語が「ふたり」に変わる時

そして、最後のここが超不思議なのだ。

はじまりはいつも雨 星をよけて
ふたり 星をよけて

あらら、こんなに頑張った解釈をひっくり返すように、主語がすり替わっている!
もはや曲の最後に至ると、悲しい運命をよけるのは神様が降らしてくれる雨でもなく、僕と君の「ふたり」なのである。

ふたりが、星をよける。
なんだかさらに、ロマンチックが割増された感じである。

先に述べたように「雨」が主語の場合、男が手にするのは神様というワンクッションを入れた、根拠のない安心感。
だが「ふたり」が主語の場合、今までの過ちをなぞることなく自ら運命を切り開いていける、という、主体的な確信すら感じないだろうか?

ちょと、彼、随分とたくましくなってない?
余計なお世話かもしれないが、不安増し増しの二番からのギャップが甚だしい。
なぜ、ここまでの心境の変化を経たのか?


この謎に思いを馳せてみた時に、注目してみたいものがある。
それは、二番とラストのサビの間にあるもの…つまりそこに挟まれた間奏である。
この間奏こそが、根拠のない安心を確信に変えるマジックを、男に、そして聴く者の胸のうちに起こしてないか?
なんて風に、私は考えてしまったりするのだ。

間奏には当然、言葉がない。
だから、この解釈の真偽はわからない。
だが、この間奏から受け取る感覚は、まさに音楽がこの世から引き出してくれるマジックそのものだ。

私はこの間奏を、勝手に「日本一美しい間奏」だと思っている。
どう美しいのか、残念ながら凡人の語彙力で説明するのは難しく、「映画のような大スペクタクルを感じる」程度にしか語れない。

素人の耳ではどうなってるのかわからぬ転調が繰り広げられるので、これは専門家の見解を参照した方がいいかもしれない。
探してみるとこのサイトに行き着いた。
私はこれを読んでうっすら理解したが、音楽に明るい方はぜひ読んでみてほしい。

そう、このサイトでも解説されているが、人の力を超えた現象を想起させるようなマジカルな転調を経て、たどり着く先というのが、また前のサビと同じ調なのだ。

この日本一美しい間奏から、私はこんな想像をしてしまう。
きっと、男は不安で苦悶しながら束の間見上げた空に、神様が司っているこの世の不思議を見たのだと。
そして、「そうか、そういうことなんだ」と言葉にならぬ確信を抱きながら、また今、目の前の現実に戻ってきたのだと。

男はもう、不安に苛まれない。
大丈夫、君となら愛を通いあわせていける。
今夜の男は優しさだけでなく、一皮剥けた幸せの確信を持って、彼女を迎えに行くのだろう。


●これぞ「珠玉」のラブソング

不安と、確かな幸せとの間を揺れ動く、人のやわらかな心。
これは、宝石で例えるなら地中から掘り出したままの原石だ。

そんな原石のような人の心に、この「はじまりはいつも雨」では、歌詞、メロディ、コード進行、アレンジ、そしてそれらの完璧な配置という構造美でもって、微細なカットを加え、緻密な研磨を施し、この世にたった一つの光り輝く美しい宝石=珠玉のラブソングへと仕上げていったのだ。

ASKAの楽曲は深めれば深めるほど、その細部まで行き渡った職人技に驚かされるばかりだが、元はといえば原石のような、誰の胸にもある繊細な感情を探り当てる力にこそ長けているのだ
私はやっぱりこの「はじまりはいつも雨」という名曲を聴いても、その原石の探索能力にため息が出てしまう。

そして思う。
ASKAの生み出した楽曲というのは、パッと聴いても美しく、歌詞を深めればその詩的表現力に驚かされて虜になり、さらには歳を重ねて聴き続けることで、その歌詞の奥にある、人間の柔らかく普遍的な心というものに気付くことができるのだ。
こんな素晴らしいギフトが、他にあるだろうか?

何度も、そして何十年に渡って味わい直せる…
これこそがASKAの楽曲の持つ真の力であり、魅力である。

そんな風に、「はじまりはいつも雨」の誕生から30年の時を経て、今大人の耳で聴き直した私には思えるのである。


***

さてさて。
このエッセイは、《「はじまりはいつも雨」を語ろう。》という企画に寄せて書いたものです。
私の呼びかけに集まって下さったたくさんの方々の想いが、一つのマガジンにまとめて収録されています。

ぜひ、この記事を読んで「はじまりはいつも雨」に興味を持った方、またこの曲を思い出し懐かしい気持ちになった方は、マガジン内の色々な記事を渡り歩き、1991年の空気に浸ってみてください!


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