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《点光源 #5》 YouTubeにぶつけてみたエレクトーン人生。

エレクトーンという楽器は、日本中で知らない人がいないほどにポピュラーな楽器である。
だがその奏法、そして生み出される音楽の可能性をご存知な方はどれほどいるだろうか?

私がその昔エレクトーンに触れていた頃は、ようやくフロッピーディスク内蔵型が登場したような時代。
それからおよそ30年、最近になって娘の付き添いで音楽教室を訪れた際に、先生がデモンストレーションして下さった「ジブリメドレー」のゴージャスさには腰を抜かしそうになった。

その再現力、音の厚み。
一人でここまで演奏できてしまう楽器は、ちょっと他に無さそうである。


ところで、YouTubeにこんなエレクトーン動画がある。
「Breath of Bless 〜すべてのアスリートたちへ」。
音楽家として完全復活したASKAが、10年ぶりのシングルとして一昨年発売した「歌になりたい」の両A面インスト曲を、エレクトーンでカバーしている動画だ。

この演奏者は、なみんぐさんという方。

コメント欄を眺めていたら、なんとASKAご本人、そして二人三脚でこの曲を作り上げたというアレンジャーの矢賀部竜成からも絶賛のコメントが寄せられていた。

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作曲者にこんな言葉を頂けるなんて、きっと演奏者冥利に尽きることだろう。

そして何がすごいのかといえば、彼女はこの演奏をCD音源のみを頼りに耳コピし、そこから自分の手で譜面を作り、何十種類もの音色をエレクトーン上で調合してプログラミングした上に、実際の演奏を練習し、重ね合わせているところだ。


さらに彼女の動画を見るうちに、私が釘付けとなったのは、このライブバージョンのCHAGE and ASKA「モーニングムーン」。
見よ、この再現力! という感じである。

ぜひこの下の動画と聴き比べて欲しい。
ライブの熱も加わった特殊な音源をどれほど忠実に再現されているか、なみんぐさんの只者でなさが伝わってくるかと思う。


華奢な腕から繰り広げられる、パワフルな音楽。
なぜ彼女はこのような動画を作ろうと思ったのだろうか? そう思い、お話を伺ってみた。

ASKAの音楽を愛する人達へのインタビュー連載《点光源》、5人目はエレクトーンで彼の音楽を奏でる人、なみんぐさんである。

●「君のエレクトーン人生の集大成にしてみたら?」

ーー今なみんぐさんのYouTubeチャンネルには、ASKAさんの作曲された「Breath of Bless」「モーニングムーン」「歩くたびに透き通る風」の3曲(注:インタビュー時。現在は「Sons and Daughters ~それより僕が伝えたいのは」も追加されています)を公開されてますが、どれも本当に聴き入ってしまうような演奏ですね。これ、エレクトーン素人の私にはどこをどうやっているのかすらわからないのですが…。作るのにかなり時間を要しそう、ということだけはわかります(笑)。

そうですね(笑)。「Breath of Bless」の動画を作った時はかなり集中して3週間くらいで仕上げたんですが、「モーニングムーン」は完成までに時間がかかりましたね。

ーーこれ、音色は一つ一つ調合するんですよね? 何種類くらい使ってらっしゃるんでしょうか?

「モーニングムーン」だと60種類くらいになります。

ーー60種類! 本当にすごいエネルギーです。

この曲は、自分のブラッシュアップのためにちょっとハードルを上げてしまった感じがありまして、途中で行き詰まってしまったんですよね。それで一度離れて、合間に「歩くたびに透き通る風」('93年のドラマ『振り返れば奴がいる』の挿入歌)というインストで表現しやすい曲を弾いてみたんです。そうしたら勢いがついてきて、なんとか仕上げることができました。

ーー弾みがついて本当に良かった。こんなに素晴らしい演奏を聴かせて下さり、喜んでる方は多いと思います!
なみんぐさんは、なぜこのような演奏動画を作ってみようと思われたんですか?

長い話なのですが…。
実は子供の頃からずっと弾き続けてきたエレクトーンから、2年前に色々あって離れてしまったんですよね。
これまでの自分とは全く違う新しい道に進んでみたいけど、自分からエレクトーンを取ったら何が残るんだろう、としばらく悶々としていて。
そんな時に夫が、「君のエレクトーン人生の集大成にしてみたら」と背中を押してくれたんです。

なみんぐさんの、これまでのエレクトーン人生。
なぜこの楽器に惹かれ、そしてどんなきっかけで立ち止まることになったのだろうか。
そして動画は、再び歩き出すきっかけになったのだろうか?


●エレクトーンの虜になった少女

'82年、茅ヶ崎に生まれたなみんぐさん。
少し歩けばたどり着ける海と、なだらかな山に囲まれた自然豊かな場所で育った。

一人っ子なんですよね。家で一人遊びといったら、レコードをかけて踊ったり歌ったりしてばかりでした。
両親は特に音楽の専門家ではないんですが、母は大学でクラシックギターを弾いていて、父は歌うのがとても好きだった。家族で車でお出かけする時には吉幾三さんの「雪国」がよくかかってたんですよね(笑)。演歌も歌謡曲もたくさん聴きながら育ちました。


ーーそうですか! 吉幾三さん育ちとは、お歳のわりに渋いですね(笑)。鍵盤楽器に触れたのはいつ頃からでしたか?

幼稚園の時にCASIOのキーボードをおもちゃとして買ってもらったんです。そこから流れるデモンストレーションの演奏や、色んな種類の音が出る鍵盤に驚いてしまって。それが楽しくて、よく触っていました。
小学校低学年の頃からエレクトーンを習い始めたんですが、5、6年生の頃にはもう、将来は音大に行きたいと思ってたんですよね。


ーーえっ! そんなに早くから?

そうなんです。私は思い込みが強いというか、一度こうだと思うと、そこから自分の道をどんどん一人で決めていってしまうタイプなんですよね。

この私も一人っ子を育てる親。もし小学生で音大に行きたいと言われたら、何も言わず笑顔で背中を押してあげられるのだろうか…。
ついつい目の前のなみんぐさんに娘の未来を勝手に映して、感情移入してしまう。

両親からは、やりたいと思ったことに反対されたことがないんです。普段は結構厳しいんですが、要所で気持ちを察してくれて、これをやってみたいという時にはいつでも背中を押してくれました。
よく思い返してみると、幼い頃から音楽に親しめるような環境を、そっと整えてくれていたようにも思うんですよね。


ーー習っていた楽器を大人になっても楽しんで弾いてる人って、少数派ではないかと思うんです。それを、およそ30年も続けられているなんて。

やめたい時期もあったんですけどね。小学3、4年生くらいの時に、発表会のステージ上で楽器のトラブルが起きて、嫌な思いをしてしまって。でもその時は、両親が「少し休んだら?」と言ってくれた。
そこで半年くらい離れてみたらまた続ける気持ちが湧いてきて、そこからはずっと、高校を卒業するまで休まず習い続けました。


ーーうーん、大人ってつい継続を美徳にしてしまいがちですが、そういう風に子供を後ろから支えてくれるご両親、とっても素敵です。

そうでしょうか。もっと感謝しなきゃいけないかな(笑)。

中学、高校とエレクトーンを習い続け、難関の音大受験も無事に突破して希望通りの進路に進んだなみんぐさん。「好き」に打ち込めた少女時代、彼女の後ろはいつも温かいご両親の視線が支えていた。


●弾きたい音楽が弾ける、それがエレクトーン

音大を卒業し、大手楽器店でエレクトーンの先生としてずっと働いてきたというなみんぐさん。あの演奏技術は、長年続けてきたキャリアの賜物であった。
この楽器の魅力とは、どんなところにあるのだろうか。

エレクトーンって、かなり独特なポジションの楽器なんですよね。日本ではメジャーではあるけれど、海外では一部の国にしか広まっていない事情もありまして、世界に通用する楽器かといえばそうとも言えないんです。

ーーいわばガラパゴス的な楽器ということなんでしょうか。ピアノとエレクトーンって、やっぱりだいぶ違うんですか。

もう、全然別の楽器と言っていいくらい違います!
同じ鍵盤を使う楽器ですけど、エレクトーンの一番の特徴は、役割がはっきりと決まっているところなんですよね。右手は主旋律、左手は伴奏、足はベースが基本。
私は途中からピアノも習ったんですが、もう、全然違うんですよね。左手でメロディを弾くこともあればベースラインを弾くこともある。指の動かし方やタッチの入れ方が違うし、表現できる音楽のジャンルやアプローチも全く違うんです。


ーーそうか、弾く音楽のジャンルが違うというのも面白いところですね! エレクトーンは身近な音楽から入っていけて、コード進行などにも親しめるのが、確かに魅力的です。

ピアノではクラシック音楽をメインに習得していくが、エレクトーンではポピュラー音楽が早い時期から弾けるのも魅力である。
なみんぐさんがエレクトーンをますます楽しめるようになったのは、ある音楽との出会いからだった。

ーー'91年、なみんぐさんが小4の頃に大ヒットしていたのが、CHAGE and ASKAの「SAY YES」だったんですね。

そうなんです。それまでは身近に流れてる音楽を受動的に聴くだけで、先生に「何弾きたい?」と聞かれても「なんでもいい」と答える子供だったんです。でもチャゲアスに出会った時に初めて、「これを聴きたい、弾いてみたい!」と能動的になったんですよね。

ーーそれは運命的な出会いですね!

もう、何このカッコいいお兄さん!という感じで(笑)。
よく覚えているのが、「BIG TREE」を初めて聴いた時のことなんですが、イントロを聴いた時に、目の前がパッと明るく開けるような感覚になりまして。それまで音楽でそんな体験をしたことがなかったので、すごくびっくりしました。
そこでエレクトーンの楽譜を買ってもらい、「SAY YES」や「BIG TREE」「太陽と埃の中で」などを弾いたりして…。親戚の結婚式で大緊張しながら「SAY YES」を弾いた思い出もあります。

ーー小学生が人前で弾くには過酷すぎる選曲ですね(笑)。

はい、緊張しすぎてどうなったのか覚えてません(笑)。

CHAGE and ASKAの「BIG TREE」。ボーカリスト、そして作曲家としてのASKAが日本のトップの座を掴んだ時期に、すべての能力や技術を詰め込んだ集大成のような楽曲である。
この楽曲を聴き、鳥肌を立てた子供達があの頃にはそこかしこにいただろう。この私ももちろん、その一人だった。

ーーそれにしてもなみんぐさんの感性は早熟ですよね。10歳くらいでチャゲアスを聴いたり演奏したりしている子って、あまりいなかったんじゃないかな。

おっしゃる通りで、全然周りにはいなかったですね。他の子はほとんどミスチルやWANDS、ZARDが好きな子が多かったような記憶があります。

ーーいい楽曲がたくさんありましたもんね! その中でもなみんぐさんはチャゲアスだったんですか。

エレクトーンの先生にも「チャゲアスを弾きたいなんて、不思議な子だな」と思われてたみたいなんです(笑)。ある時、「なぜに君は帰らない」を教えて下さってた先生が、ふと「チャゲアスの曲って不思議だよねぇ」とおっしゃったのが、妙に記憶に残ってます。

ーーもっとわかりやすい、弾きやすい曲はたくさんあったはずですよね(笑)。

そう思われたんでしょうね(笑)。ASKAさんの楽曲って、あのボーカルが入ってこそ本家のイメージが完成される曲が多いですから…。
でもやっぱり、私にとってチャゲアスは特別だったんです。音楽でこんなにワクワクできるんだ、違う世界を感じることができるんだと、アルバム『TREE』を聴いて初めて思ったんですね。

『TREE』、CHAGE and ASKAが日本の音楽界の頂点を極めた'91年の作品である。
当時小学生のなみんぐさんの胸をここまで強く揺さぶったと聞くと、やはりヒットから生まれる影響力というのを改めて思い知らされる。
その時の感動が、一人の少女を30年以上エレクトーンと向かい合わせるエネルギーに変わっているのだ。

チャゲアスの'90年前後の作風って、クリスタルな感じというか…。とても独特で、重厚に音や声が重なってとても煌びやかな、他にない音楽だと思うんです。聴くと胸をかき乱されるような感動があり、その魅力に取り憑かれたんだなと、今になって思います。

ーー「クリスタル」という表現、とてもよくわかります。

特にアルバム『TREE』と『GUYS』にそれを感じるんですよね。『RED HILL』が出たのが小6の時でしたが、微妙に作風が変わっていく予兆を感じて少し寂しいような気持ちになったのを覚えてます。曲の服のまとい方が変わったのは、変革の始まりだったのかも知れない、と今は感じています。

ーー本当になみんぐさんの耳は肥えている…(笑)。その後はソロを挟んで大きく作風が変わっていきますよね。

やはりChageさんもASKAさんもアーティストですし、'90年代後半からの作風の変化は当然だと思います。実際にその後の音楽も素敵で、私もCDを買い続けたりライブにも足を運んでいたのですが、私にとって初めて感動を受けた音楽の原体験として大事に思っているのは、やっぱりあの頃のクリスタルな音楽なんです。本当にあの音楽との出会いがなければ、今の私は無かったと思うんですよね。


●エレクトーンの先生を仕事に選んで

能動的に音楽に向き合いたい。
エレクトーンという楽器を通じ、どんどん成長していったなみんぐさん。彼女の軸となっているのは間違いなくこの楽器だ。
だが、この楽器だけで自分はいいのだろうか?という疑問とも、時には隣り合わせに歩んできたという。

高校の時まではまっすぐ、エレクトーンの先生になりたいと思ってたんです。でも大学に入って色んなものに触れていくうちに、「エレクトーンしか経験していない自分って、世界が狭いんじゃないかな」という疑問が湧いてきてしまって…。これだけでの人生でいいのかな、と思ったんですよね。ちょっと尖ってしまったというか(笑)。

ーー若い頃あるあるですね(笑)。みんな一度は外に飛び出たい時期がありますよ。

就職を決める時、全然違う畑の職種を自分なりに考えて受けてみたんですが、全部落ちてしまったんですよね。自分で考えたことがうまくいかないという、人生初めての挫折を味わったのがこの時期です。

ーー就活中って、自分が思っている自分と現実とのギャップに悩みますよね。そこを乗り越えて、エレクトーンを選んだのですね。

ちょうど落ち込んでた頃に、ずっと習っていたエレクトーンの先生から発表会のゲスト演奏の声を掛けて頂いたんです。それで、かなり久しぶりに昔からよく知っているホールでちゃんと演奏してみたんですが、この時に「やっぱりエレクトーンっていいな」という気持ちがはっきりと湧いてきて。そこから進路を、思い切って音楽教室の先生に変えてみました。

ーーなみんぐさんにとって良いタイミングでしたね。

本当に、良い先生との出会いに感謝してます。

ーーそこから15年間エレクトーンの先生を続けられて…。一般的な企業だとこの期間の中で転職も多いと思うんですが、音楽のお仕事ってモチベーションを高く維持しやすいんでしょうか?

やりがいということで言えば、確かにあると思いますね。生徒さん一人一人が全く違う個性だし進み具合も違うので、毎日違うことが起きるというのはこの仕事の良いところかもしれないです。
でも15年なんて、音楽教室業界ではまだまだなんですよ(笑)。上には上がいるという感じで、みなさん本当に頑張って続けられてると思います。

自分としっかり向き合い、順調にエレクトーン講師としてのキャリアを積んできたなみんぐさん。
ところが'19年の初頭から、大きな転機がやってくる。


●先生という鎧を脱いだあとに残るもの

なみんぐさんが長年続けた仕事を休職という形でストップした、'19年の春。いつのまにか、心と身体がうまく動かなくなってしまったという。

先生という仕事は大きなやりがいがあって、音楽にもずっと触れられる素晴らしい仕事だったのですが…もう続けられないかも、と休職の決断をしたのが2年前の春で、それから一年休んで昨年に退職をしたんです。

ーーそうだったんですね…何かきっかけになることが?

うーん…。わかりやすいきっかけというより、数年かけて自分の中で大きくなってきていた違和感が、ついに現れてしまったという感じで。

ーー違和感ですか。

よくよく考えてみると、私は先生として、ずっと背伸びしてきてるよなと。教室に入れば先生と呼ばれるけれど、本当にそれにふさわしいキャリアやスキルを自分は持っているのかな? と、そういうところに数年前から自信が持てなくなっていたんです。

ーー私の目から見ると十分なように思うのですが…。

もちろん、生徒を教えることはできるんですが、先生って自分のスキルアップや学習の時間というのがなかなか取れないんですよね。実力を磨く時間が生み出せないまま、それでも先生という立場にふさわしいよう自分を大きく見せ続けているのが違和感につながってたんだと思います。
就業時間外にスキルアップに務める方もいましたが、自分には体力も気力も足りなくて、それもコンプレックスでした。


ーーそりゃ当然ですよ! そういうことには敢えて鈍感にやり過ごしていく人が大半ですし、それで世の中は回っている気もします。

でも私には難しかったんですよね…。自分のことなのに、自分で対処できないというか。私がもし「先生」という鎧を脱いでしまったら、後に何が残るんだろう…ということをよく考えるようになってました。

ーー自分の内側を正直に見つめるほど、悩みは深くなりますよね。

知らぬ間に心に負担がかかっていったのは、常に「自分はちゃんとできてない」って思いながら仕事をしてきたからかもしれないですね。
もしかしたら他にぴったりくる道があるんじゃないか、という気持ちも湧いてきたんですが、今までの道を振り返ってみると、私はエレクトーンしかやってきていない。この先どうなるんだろうか、と悶々とするようになってきて。


ーー30代って、改めて自分の人生に向き合う時期ですよね。家庭を作ったり仕事も年数を重ねる中、固まってくるものが増えると、本当に進みたい道なのか見つめ直すようになる。

本当にその通りで。一度は色々考えた末、目の前の仕事にちゃんと取り組もう!  と腹を決めたんですが、ちょうどその頃は発表会がある忙しい時期で。ちゃんと頭を動かせないままにレッスンや準備に追われて、ようやく発表会が終わったと同時に、身体が全くいうことをきかなくなってしまったんです。

ーーそれは…本当に辛い思いをされましたね。

休んでる期間中も、ずっと考えていました。私、先生でなくなったら何が残るんだろう、と。


●エレクトーン人生をぶつけたチャレンジ

家の中で悶々と、これからについて考え続ける日々。
そんな休職期間中に、なみんぐさんにはこれまで以上に音楽に助けられている実感があったという。

ーーきっと休職中は、休みながらも心は全く休んでいない状態ですよね。そんな時期に、音楽に助けられたと。

子供の頃から大好きだったASKAさんの音楽に、途中から少し距離も取ってきましたが、'13年にチャゲアスが復活するというニュースを聞いてファンクラブに入り直し、ずっと聴いてきたんです。
ASKAさんの音楽って、底抜けに明るい曲がそんなに多くない。だからこそ信頼を感じるんだろうな…などと、休職中にずっと考えていて。


ーー本当にASKAさんの表現する寂しさや悲しさ、それを乗り越えて進もうという強い気持ちは、音楽を通じて伝わってきますよね。

生きることって楽しいことばかりではないけれど、そういう事実に目を背けず、悲しいことやどうしようもないことさえも昇華させて、立ち向かう力を抱く…そんなメッセージを、ASKAさんの音楽から受け取ってたんだと思います。


エレクトーン講師を退職する方向に、心が向かい始めていた頃。
ちょうどASKAのニューシングル『歌になりたい / Breath of Bless 〜すべてのアスリートたちへ』、そしてアルバム『Breath of Bless』が発売されることとなる。

「Breath of Bless ~すべてのアスリートたちへ」を聴きながら、なんとなく「これをアレンジして弾いてみたらどんな風になるんだろう」って思ったんですよね。

ーーまた弾いてみよう、というピュアな気持ちが湧いてきたんですね。

夫に軽い気持ちで相談してみたんですが、そうしたらとても喜んでくれて。「君のエレクトーン人生の集大成にしてみたら」と言ってもらえたんですよね。


その上、なみんぐさんの心を決定的に動かしたのは、ASKAファンのご友人の一言だった。

渋谷のタワレコでASKAさんのニューアルバムの企画展があって。一緒に出かけた友人に「『Breath of Bless』をエレクトーンでアレンジしてみようかと思ってる」と話したんです。
そうしたら「聴いてみたい」と言ってくれて。「いいねー」みたいな社交辞令ではなく、本当に心を込めて言ってくれたと思うんですよね。それを聞いて不思議と、今までにない力が湧いてきたんです。


ーーご主人の一言で生まれていたきっかけが、ここにきて動き出すんですね。

夫に応援されて「やってみようかな」とは思ったんですが、「今の自分にやり切れる力があるんだろうか」という気持ちとの板挟みで踏ん切りがつかなかったんですよね。だから「一人でも聴いてくれる人がいる」と思えたことが大きかった。

そこからは使命感のようなもので、すごく集中してアレンジし、動画を作りました。夫にカメラをお願いしたんですが、緊張しがちな私が何度もミスタッチする中、「もう一回行こう!」と励ましてくれて。二人で作ったという気持ちがあります。


ーーご主人は、なみんぐさんがエレクトーンを弾いてるところが大好きでいらっしゃるんでしょうね…。

両親にも動画を見てもらったんです。YouTubeに動画を載せるなんて嫌がられるかなとも思ったんですが、二人ともとても喜んでくれて。
そういえば私がエレクトーンをちゃんと弾いてるところを、もう10年近く見せてなかったなぁ…と気付きました。

ーーご両親も心配されながら、ずっとなみんぐさんの様子を見守ってらしたんでしょうね。やっぱり動画を作って色々と気持ちが変わりましたか?

どうにかして悶々とした気持ちを明るい方向に向けていきたかったので、本当に変わりました。
私からエレクトーンって、やっぱり切り離せないですね。楽器の限界や世界の狭さもこれまで散々感じてきたし、それしかない自分が嫌で、そこから離れてみようと大きな決断もしてみたけれど、でも今では逆に「私にはエレクトーンがある」と思えるようになっています。


職を手放すことはとても勇気が要りましたが、対価が生まれない環境に身を置いた今、ようやく身の丈に合ったことができるようになってきたと感じています。
大切なものは手の平で持てるくらいでいい、とも思えるようになりました。表現の仕方はその時々で変わると思いますが、大切だという気持ちはずっと根っこにあるはず、と考えています。

ーー仕事でなかったとしても、心から打ち込めるものがあって、しかもそれにかけられる時間や自分の技術、活動を支えてくれる人間関係があるというのは、何物にも代えがたい財産だと私は強く思いますよ。


なみんぐさんと共に暮らし支え合っているご主人、動画のきっかけとなったご友人、そして遠くからずっと見つめてらっしゃるご両親。
近しい人達と豊かで温かい関係を作れているなみんぐさんの人となりを、改めて思う。
人生から受け取るギフトとは、まさにそこから生まれるものなのではないか…。
そう気付かされるような、聞くほどに心の温まる彼女のお話であった。



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ASKAの音楽を愛する人たちへのインタビュー連載《点光源》。
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