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一人でいることの頭の中 ― 『茄子の輝き』(滝口悠生)

この本のタイトル、何だか見覚えがあると思った方。
そうです。映画『花束みたいな恋をした』に出てきたあの本です。
今村夏子さんを好きな人が好きな本ならば、そして脚本家の坂元さんが作中で登場させた本ならば、私もきっと好きだろう。
そう思って読んだ結果、やはりとても心に残る本になったので、今回はこの作品について語りたい。

『茄子の輝き』の主人公は、市瀬という男性である。
市瀬は、20代後半で妻と離婚をしている。その離婚後から30代前半までの彼の思考を、そのまま脳に移植して追体験しているかのような作品だ。
作中のほとんどの場面において、市瀬は過去を想起している。
妻(伊知子)のこと、勤めていた会社のこと、恋愛関係を求めているわけではないけれど大好きだった社内の女の子(千絵ちゃん)のこと。そして、後半に登場する女性(オノ)のこと。
日記や写真、当時過ごした場所をきっかけに何かを思い出すこともあれば、ある誰かを思い出すことで、連鎖して他の人のことを思い出すこともある。そして、その思い出した何かをきっかけに、また新しいことを考え始める。
このような市瀬の脳内世界は、一人で、かつ何にも注意を向けていない時の私の脳内世界そのままである。
小さい頃、電車やバスの中で、何かの待合室で、ただただじっと待てる大人達が不思議で仕方なかった。大人は、何で退屈でそわそわしないんだろう、何を考えているんだろうと思っていた。
大人達の頭の中では、おそらく市瀬や私のような思考が巻き起こっていたのだろう。希望の有無にかかわらず生まれる脳内世界の中で、それなりに会話が続けられるようになった時、人は、ただじっと待つという大人らしい行動がとれるようになるのかもしれない。

私にとって、市瀬の思考の中でも特に印象的だったのは、意識の宛先として何度となく登場する妻に関してのそれである。

今私が語りかけているのは八年前の伊知子なのか、現在の、私の知らない伊知子なのか、どちらなのか。前者であるならば、私は過去に向けて呟いているのか、呟く私じたいが過去の私なのか
(中略)
その辺が厳密になると、伊知子をいう宛先も、みんな消えてしまうような気がして、そもそもいくら語りかけようが伊知子がそれを聞いていないことだけは間違いないというそんな宛先、聞き手というのはいったい全体なんなのだろうか。

「離婚した妻のことを考えている話」という時、過去を美化しているとか、未練があるとか、そういう話に収束するのだったら、物語としては、なるほどたしかにわかりやすい。
けれど、「そういうことじゃなくて…」という私にとってのリアルな脳内世界をまざまざと表現してくれているのが、この作品のとても好きなところだ。
何らかの感情を持つ前に、人はただただ脳内世界に入ってくる。
過去のどこかの段階で、意識的に自分の脳内世界に呼び込んできた相手ならば、その相手は、私の脳内世界に部屋を持っている。いつどんな形で入ってくるかも、後になってその部屋を出ていってくれるかどうかも、私にはコントロールできないことなのだ。

ちなみに私の場合は、人と思うように会えないご時世のためか、今は離れているけれど今後も気軽に会えるだろう関係性(家族や友人)に対しても、今までとは意識の宛先としての在り方が変化してしまったような気がしている。
私は、ぽっかりと空いた時間の中、脳内で幾度となくその人達に語りかけるが、その答えはもちろん返ってくることはない。語りかけては、その語りかけた内容を忘れるということを一人で繰り返すうちに、その行為と虚しい気持ちが私の日常になってしまった。
そういう相手は、同じく脳内世界である夢の中にも気軽に登場し、起床後の私を悲しくさせる。
これは、平たくいってしまえば「孤独」という感覚である。
この感覚に寄り添う作品はたくさんあるけれど、この『茄子の輝き』のような寄り添い方は、丁寧で深々としていて、とても染みる。
あの時の『花束みたいな恋をした』の絹ちゃんは、市瀬や今の私と同じような感覚に陥っていて、この作品の良さを分かってくれる人としての麦くんを求めて、この本を託したのかもしれない。
絹ちゃんが、この本を読んで何を思ったのか聞きたくなった。
そんな機会が訪れたとしたら(いや、無いのは分かっているけれど)、凄い作品に出会わせてくれてありがとう、とまずは一言お礼を言いたいと思う。

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