薩摩藩の大規模防衛拠点、外城「出水麓武家屋敷群」をご紹介
こんにちは、ゆうさいです。
今回は、鹿児島に行った際にはぜひ足を運んでもらいたい鹿児島出水市にある「出水麓武家屋敷群」をご紹介します。
この地域にある武家屋敷へ入ると、囲炉裏や台所などがそのままの形で遺されており、江戸時代の薩摩武士の生活を身近に感じることができます。
石垣が連なった武家屋敷が道を挟んで整然と並んでおり見応え充分。
過去に知覧でみた武家屋敷群を思い出しました。
薩摩藩では、鹿児島城(鶴丸城)を内城とし、それを中心として領内にいくつも外城をつくり、国の防衛体制を構築していました。
そんな外城には「麓」という武士が住む集落が形成されるのですが、そのひとつがこの出水の地につくられました。
外城の数は最終的には113ヶ所になったそうですが、その中でも薩摩藩は特にこの出水外城を重要視しました。
歴史的に出水の地は、豊臣秀吉さんによる九州征伐後、一時秀吉さんの直轄領となりました。
しかし、「慶長の役」と呼ばれる朝鮮出兵での島津氏の活躍により、再び島津領として返還されます。
その際、初代藩主である島津忠恒さんは、家臣の本田正親さんを出水地頭に任命し、積極的に領内の整備を行いました。
地理的にみると出水は、肥後国との国境に近い場所にあたります。
北にある肥後国からの侵攻に備えるべく、忠恒の父の島津義弘さんはこの地に居館までつくり、自らがその防衛に尽力しようとしていたといわれています。
その証拠に、義弘さんは現在の姶良市にあたる帖佐に当時住んでいたのですが、その居館の門をこの出水に移築しています。
現在でもその門は、出水小学校の校門として使用されています。
出水外城がいかに薩摩藩にとって戦略的に重要な場所だったことがわかるエピソードですね。
出水外城は、関ヶ原の戦いが起こる前年から造りはじめられたそうで、30年ほどの歳月をかけて完成しました。
外城内には、150軒にのぼる武家屋敷が造られ整備されたそうですから、当時としてはかなり大規模な武士の町だったことがわかります。
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