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止まった生活が今日も続く、

 15m先がギリギリ見えるくらいの、人並以下の秘色(ひそく)の中を潜水している。息を潜めて、底の水色のタイルを眺めて、ただぼくは生きている。
「よーい、、」ピッ!という音と共に、スタート台の方からしぶきの残骸がこちらに潜り込んでくるが、名残惜しさも見せずに水面に帰っていく。

 塩素が、髪の色素をバレないようにようにくすねていくのを、みすみすと見逃した。自分自身に、幼年期の無垢な瞳をくすねられるのを、見て見ぬふりをして、何事もなかったかのように毎夜眠る。今日も夢をする。

***

 スタートの合図に、脈が止まるほど耳を澄ませ、飛込から10mのドルフィンキック。水の隙間を縫ってクイックターン。
 帰りの25m、隣のレーンの様子見もほどほどに、理性と激情がないまぜになり、怪物の様に筋繊維を脈打たせながら水の中を滑り、渇望した壁を突く、50m自由形。大会の空気、小学時代。

 音楽の新鮮な楽しさを余すことなく音楽室で受け止めて、部活の時間はすべてを忘れて真っすぐに練習し、声が幾重にも重なる。和音の揺らぎが弾けてそこら中に突き刺さり、どこまでも沁みこんでくれると信じて疑わなかった。
 舞台裏の匂いと、固体化するかと思った緊張感。スポットライト。終演後、冷めやらぬ興奮をどこまでも引きずった中学時代。

 制服を脱いでも息苦しくて、殴られる音が壁一枚越しに僕の耳を貫通して、世界が真っ暗に思えて、一分後のことも考えたくなくて、何に怯えているのかも分からなくなっていた中、ギターとバイオリンに必死に縋りついた高校時代。

 今までで一番酷く、無様で幼稚でみっともなく、苦しく、でも刹那的で最高な幸せに満ち満ちていて、家を離れ、生活を食らい、鉋やナイフの刃を研ぎ、夢に向かって血も汗も惜しまずしがみついていることが、そんな自分が誇らしかった専門時代。


 過去に生まれた数えきれない情動を主に糧として、僕は作品を書いて、音楽をしている。みんなもそうだと思う。これからもそうだと思う。
 ところがまずいのだ。今、心に跡を残すほどのほどの感情の生成が、全然追いついてない。需要過多である。
 感情の貯金暮らしは、一体いつまで続けられるだろうか。
 それが尽きた時、僕はどうなってしまうのだろうか。

 19を境に、僕の時間が白くなった。きっと今も白いままだ。
 傍にある満6歳の腕時計が、ずっとよそよそしく感じるのは、気のせいじゃない。
 もうここ2年、ずっと「あの頃」をリピートして生きている。
 そのフィルター越しに生きている。もうずっと僕は止まっている。

 ああ。ここは、夢の中だ。

 そう思い始めて、何度月が回っただろうか。夢の中で夢を見て、夢に逃げてまた夢に帰ってくる。喜怒哀楽その他の感情が、この夢の中でやけにリアルに展開される。

 はて、現実と夢の境はどこへ行ってしまったか。
 きっと自室から見えるあの隆線が隠しているのだ。
    それか月の海の遥か底で眠っているのだ。

 はたまた、もう死んでいるのだろうか。
 そうだといいな、と思う。
 作品の言葉を少しいじって拝借するなら、惰性で続く現実程つまらないものはない。これを人生というには、あまりにも短すぎて、薄っぺらい。
 そして、諦めるのって、一番簡単で一番悲しいこと。

***

  少し疲れた顔で地元に帰ってきた友人の、その内に秘めたものが、「あの頃」から少しずつ熟れていたように見えた。
 30年物の軽トラで友人と星を見に行けば、曇り空をかき分けようともせずに、汚れなんてお構いなしに僕はアスファルトに寝転がった。雲が空を走っている。風が強くなる。


 練習が終わった後、プールの底で息を止めて、コーチの声も届かないところで水面を見上げていた時を思い出していた。
 5つほど向こうのレーンで、いつの間にか4種目の200mメドレーが始まっていたようだ。

 ぼくより遥かに体の大きな男子選手が、美しいフォームで水獣となって水中をはばたく。苦しくなって息継ぎをしに水面に上がった途端、轟音が耳に押し寄せ、彼らの気迫の飛距離に驚いた。

 宿題は練習の前に終わらせたので、練習後は夕飯をたらふく食べて、入浴を済ませ、ベッドに思いっきりダイブする。

 あぁ、気持ちいい。練習つかれたぁ、、、。

 その日ぼくは夢を見た。
 プールの底から見た水飛沫。
 気付けば海中にいた。
    天井の照明は、瞬くと太陽に変わる。
 いつまでたってもその泡は消えない。そして光る。
 「泡が光ってる!」
 光っていたのは、すべて一等星だった。
 そこで気付いた。息ができる!髪も濡れていなかった。


 腰かけていたはずの海底の岩は、ビールの空き缶だらけでタバコの臭いが沁みついた部屋の、ボロボロの肘掛け椅子になっていた。

 耳に優しい音量で、アストゥーリアスが延々と流れている。
 この奏者、誰だっけ。

 目の前のパソコンには、何も書かれていないWordが、寂しく立ち上げられていた。机はインクと酒と灰に塗れていて、とても作業できる状態ではなかった。
 机の下に散乱している楽譜と思われるものや、何かが書かれている原稿用紙がギリギリ原形を保っている。

 本棚は乱雑に倒され、窓が開いている。蒸した粘着質な夏風が、でろでろと部屋に上がりこむ。
 涙痕が顔面を削っていくような錯覚に陥る。

 あれ、こんなところでぼくは何をしてるんだろう。水泳の練習がおわって、、そうだ。早く家に帰らなきゃ。
 家に帰らなきゃ、家に、、、。僕は、僕は。

 家って。ここだ。

 あー。そっか、そういえば

 さっき人を殺したんだっけ。

 これでまた作品が書けるよ。

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