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小箱

去年の10月からライブ活動を始めて、顕著になってきた心の摩擦について。

創作に対して真面目になればなるほど、バケモノたちの作品に蹂躙されるほど、歌うこと、書くことを単純に楽しめなくなっている。
そんな気がするのではなくて、確かにそうなのだ。
身の丈に合わないクオリティを着ようと手を伸ばして、体を捻って暴れては炎症を起こし、酷く火照っている。 
周りの人間には言っていないのだが、創作が結構苦しい。

大問題だ。さてどうする。
映画や小説を読んで充電したり、好きな音楽に没頭したり、美味しいものを食べたり(最強)、YouTubeを漁ったり。
素直にそうすればいいのだが、私は面倒な哺乳類なので、舗装されてない山道へと右折する。

休みすぎているくらいゆっくりな人生。
挑戦を重ねてようやく手に入れたは自分の世界の外出許可証。
休んでいる間にも絶え間なく生まれ続ける他人の作品たち。
濡れて文字が掠れて、使い物にならなくなってしまった証明書。
起き上がらない身体、カビの生えた脳みそとはらわたを垂れ流す。
唯一無二のはずの歌が塵へと化していく様を肴に毎日酒を浴びる。
こんな妄想ばかりが捗る。

休むことへの罪悪感と恐怖が日に日に強くなっている。
しかし、崖から滑り落ちて完全に遅れをとっている私にそう思わせることなど、「わたし」にとっては赤子の手をひねるよりも容易い。

今の私の作品は、人に語れない。人に語らない。
夢か現かの境目で彷徨いながら零す独り言に過ぎない。
そんな作品を「良い」と言ってくれる人もありがたいことに居るが、なかなかどうして払えない途方もなく空しい感覚。
晩夏の夕暮れ時に抜け殻まみれの一室で一人、もう何も感じてしまわないよう椅子に立って息を止めている様な音ばかりを、シャボン玉で梱包して願いを込めて吹いたりする。
何をしても満たされない。
全ての出来事の最後に、句読点のようにいつの間にか置かれている虚無。 
作品に対する水性の褒め言葉もすぐ雨に降られる。

命を削るようにして表現したその向こうに何を見たいのか、全く分からなかった。
そんなことを意識せずとも、勝手に湧き出てくるものだったからだ。創作は呼吸に等しかった。「するもの」と言うより、どうしても「してしまう」もの。それが私にとっての創作だった。

『創作の方向性とか、なんのために表現するかとかを模索する時期にするといいかもね』
ある表現者にそう言われた。それがあるのとないのとでは、世界観の深さや説得力が違ってくると。
核を握りしめて舞台を舞う彼の表現は、一等星に並ぶ輝きを放っていた。そして苦しんでいた。表現させられていた、という方が正しいかもしれない。
それは初めから作品に宿っていて、神様の気が向いた時にようやくうっすらと見せてくれるくらいのものだ。

勘違いしてはいけない。
自身が生み出したからといって、作品を支配している気になってはいけない。主導権はいつでもあちら側にあり、無常に自分を見捨てることもある。自分に言い聞かせ続ける。
僕にとっての神様はやはり音楽だと再認識する。

創作を「してしまうもの」に戻すことと、そのために肩の力、生活の力みを抜くこと。作品に身を委ねること。
ひとまずそれを今年の目標にしてみる。
休んだところで作品自体は一つも衰えない。変わらず牙をむき出しにして、全力で私に嚙みついてくるだけだ。

冒頭で「大問題だ」と言ったのだが、そもそも創作など苦しんでなんぼなのかもしれない。
せいぜいこの地獄を味わって、懇切丁寧に額縁に入れられた血痕で描かれた作品を、手の平の交通網が人生で最も発達したときに愛でてやれる日を夢みることにする。
私はやっとスタートラインに立てた、そう考えてみる。

小箱からの乱文、失礼いたしました。
今年も何卒、宜しくお願い申し上げます。


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