見出し画像

なぜ私は、SHIROの社長をやめたのか


コスメティックのメッカに出店する

仕事のプロフェッショナルは、自分の仕事を通して世界を見つめているような気がします。

旅人は旅を通じて世界を見つめていますし、フォトグラファーはレンズから世界を見つめています。私は、コスメティックから世界を見つめてきました。

どうすれば人々をしあわせにできるか、どうやって世界をよくしていくか。その方法を、コスメティックから、SHIROというブランドから考えてきたのです。

2016年10月、SHIROはロンドンのキングス・ロードに海外1号店をオープンしました。初めて海外進出を意識したのは、それから2年前。福岡の「アミュプラザ博多」にお店を出したときのことでした。

札幌に1.25坪の小さなお店を出してから5年以上が経過して、日本列島の北から南までお店を出すことができました。そのタイミングで、ふと「いよいよ世界を目指すときが来たのかな」と思ったのです。

製品開発を担当している同い年のスタッフがつくる製品を、世界中の人に使ってほしかったという想いもありました。私は彼女がつくる製品の最初のファンですから、もっとたくさんの人に知ってもらえたら…と考えたのです。

海外の1号店をロンドンに出店したのには、理由があります。

売り上げのことだけを考えればアジアに出店するのがセオリーでしたが、私が尊敬するコスメティックブランドの多くは、イギリス発祥です。とくに強く影響を受けているLUSHの歴史がイギリスから始まっていたこともあり、「海外はここから始めたい」と出店を決めました。

LUSHについてのお話は、以前に書いたnoteでも触れています。もしよければ、ご一読ください。

イギリスはコスメティックのメッカです。

この地でブランドを展開するのは簡単なことではありません。出店も難しければ、そこで採算を取るのはもっと困難です。実のところまだまだ赤字で、苦しい経営が続いています。

それでも、撤退する予定はありません。難しい戦いでも諦めずに挑んでいくことが、SHIROをよくしていくし、SHIROの魂を貫くことだと思っているからです。

ロンドンへの出店をきっかけに、SHIROは積極的に海外出店をするようになりました。コロナのタイミングで閉店することになったのですが、2018年にはニューヨークにも出店しました。昨年、台湾にも実店舗を構えました。公式のオンラインストアは、イギリス・アメリカ・台湾、中国の4カ国で展開しています。

コロナ禍で見た景色

ロンドンに海外1号店を出店した当時、私は漠然とこんな目標を持っていました。

世界のラグジュアリーブランドと肩を並べてみたい。

そのために海外を飛び回っては、CHANEL、L'OCCITANE、DEAN & DELUCA…と名だたるブランドの1号店をめぐっていました。

どのブランドも、1号店には言語化しにくい独特の雰囲気があります。そのお店に、ブランドの価値観、空気感が詰まっていると言えるかもしれません。

素晴らしいブランドの歴史をたどり、1号店を訪ねて感性を研ぎ澄ませることで、SHIROの将来像を確立していきました。

良いブランドの本質は、たくさん利益を生むことではありません。素敵なブランドに触れる人の数が増えると言うことは、それだけ世の中をしあわせにしている、ということだと思います。

CHANELのリップやバッグは、世の中の女性を笑顔にしています。プレゼントする男性も、きっとしあわせな気持ちのはずです。SHIROもそんなブランドになりたくて、先人たちに学ぼうと必死になっていました。

だけど、いま振り返ると当時の私は、とても殺気立っていたのではないかと思います。とにかく「上を目指そう」という気持ちが強くて。ストイックな創業者ほど怖い存在はないので、当時のスタッフはきっとピリピリしていたんじゃないかな…。

私自身も、限界に近い状態だったように思います。世界中を飛び回ることで身体が疲弊し、「もっと上に」という思考は無意識に精神を追いつめていました。

消費を煽っているだけなのではという、小さな違和感もありました。全速力で走っている当時は、そうした違和感と向き合うことが怖くて、気が付かないように蓋をしていた部分も、あったかもしれません。

そんな時、私の考えを180度変えたのが、新型コロナウイルスが巻き起こしたパンデミックでした。世界中に急ブレーキがかかり、強制的に立ち止まることになったのです。

あれだけ忙しくしていたのに、突然カレンダーが真っ白になりました。「SHIROが本当にやりたいこと」を考える余裕が生まれました。コロナによって自分に余裕ができて「少し安心した」ところもありました。

コロナ禍の真っただ中だった当時を思い出してみると、コロナがどんなウイルスなのか分からなくて、外出することさえ恐ろしい日々が続いていました。コロナ拡大当初は「素敵な製品が欲しい」と言っていられる状況ではなく、命を守ることが何よりも優先されていました。

そうした日々の中で、SHIROの製品は、まったくといっていいほど世の中の役に立っていませんでした。言葉を選ばずにいえば、命が保障されない日常において、SHIROの製品には価値がなかったのです。

虚しくて、寂しい気持ちになりました。「何のためにSHIROをつくったんだろう」って。私たちにできることはないかと、毎日、必死に考えていました。

変化のきっかけは、ある光景を目にしたことでした。手指消毒剤を求めて、ドラッグストアに長蛇の列をつくる人々の姿です。

外出には危険が伴うにもかかわらず、命をかけてお店に並ぶ人たちの姿を見て、「これなら私たちにも貢献できる」とすぐに行動を開始しました。

工場の全ラインを、手指消毒ができるサボンの香りがする消毒用エタノールスプレーの生産に切り替えました。もともとSHIROの他製品に使う予定だったボトルに消毒液を詰めて、およそ1カ月で販売まで漕ぎ着けました。

コロナ禍にもかかわらず、工場でスプレーをつくり続けてくれた砂川の製造スタッフには、今でも頭が上がりません。彼ら彼女らがいなければ、私たちには何をすることもできませんでしたから。

なぜ社長をやめたのか

1回目の緊急事態宣言から1年あまりが経過した2021年の7月。私はSHIROの社長を退任して、会長兼ブランドプロデューサーになりました。

まだまだ危険な日々が続いてはいたものの、コロナ禍という苦しい状況下で少しでも価値を提供できたことや、SHIROを世界に進出させられたことなどが重なり、「やり切った」と思えたのです。

もともと大きな会社をつくりたくて社長になったわけではないですし、SHIROはすでに自分の器を超えているとも感じていました。

私はゼロイチをつくるために国内外を飛び回るのは得意ですが、確立され始めたモデルを着実に広げていくフェーズにおいては、もっと上手な経営者はたくさんいます。

SHIROの将来を考えると、現社長の福永にバトンを渡すことが最適だと判断しました。

実は、2019年にも社長を退任しようと考えたことがあります。SHIROのリブランディングを終えたタイミングでした。すでに私のブランドではなく、SHIROを愛してくださる「みんな」のブランドになっていると感じられたからです。

それから数年が経ったタイミングで、やっぱり「やり切れたよね」と思えたことが、決断の最終的な後押しになりました。

経営ではなく、ブランドプロデューサーとしてクリエイティブに集中することになってから、気づくこともたくさんありました。同じ会社にいても、社長という肩書を外したことで、初めて見えた世界がありました。

社長をしていると、視線がどうしても経営に向いてしまいます。いい会社をつくること、お客様に愛されるブランドをつくることで、頭が一杯になってしまうのです。

ところが、社長という役割から離れてみると、SHIROというブランド、そして会社をフラットな目線で見られるようになりました。また、SHIROが社会をよくすることにどれくらい貢献しているのかを、より第三者視点で見つめられるようになりました。

私が好きな言葉に「放てば手に満てり」というものがあります。曹洞宗の開祖、道元禅師が説いた教えで、「手から離れた時、大切なものは自然に手元に満ちてくる」という意味です。

逆にいえば、ずっと何かを握りしめていると、新しいもの、本当に欲しいものは入ってこないとも捉えられるかもしれません。

私が社長を手放して入ってきたのは、社会に貢献したいという意識でした。経営だけではなく、社会という視点で物事を捉えられるようになりました。

遊具が壊れ公園で遊べない子どもたち、いがみあう大人たちのニュース、教育における地域格差、夢をもてない子どもたち…。

同じ景色を見たり、似たようなニュースに触れたりしてはいたものの、社長を退任してからは、こうした社会の違和感に敏感になっていきました。

どうして、社会は変わっていないんだろう?どうすれば、よくなるんだろう?

私が社長に就任した当時と比較すると、会社の売上は10倍以上になっています。その分、たくさんの税金を納めていることにもなります。

きっと他の企業や個人も税金をたくさん納めていて、公的活動に使われたお金も莫大なはずです。にもかかわらず、社会は良くなるどころか悪化しているようにも見える。

それまではたくさん税金を納めることが、社会をよくしていく手段だと思っていましたが、そうではないかもしれないと思うようになりました。そして、事業資金として自分たちで使って還元することにしました。

社会をよくする挑戦のひとつとして、社長を退任してから最初にチャレンジしたのが、「みんなのすながわプロジェクト」です。SHIROが生まれた場所である北海道の砂川市で、世界中から人が集まり、誰もが感動体験を持ち帰ることのできるまちづくりをしようと決めました。

「みんなのすながわプロジェクト」は、SHIROのことだけでなく、砂川のこと、子どもたちのこと、そして社会のことを本気で考えた取り組みで、熱量が高い取り組みでした。

だけど、思ったようには進まずで…。「みんなのすながわプロジェクト」の物語は、また次回以降にお伝えしたいと思います。

*みんなのすながわプロジェクト

(編集サポート:泉秀一、小原光史、バナーデザイン:3KG 佐々木信)

いいなと思ったら応援しよう!