見出し画像

優しくなりたいときに考えるべき「生物学」

優しくなるためにはどうすればいいかを考えていた。

最近、対人関係において僕の悪い癖が出てきている。何か指摘されたり注意を受けたりするとすぐに謝ってしまう。

とてもとても身近な人にしか出さない癖だけど、どうにかしたい。本能的かつ反射的に、ものすごく申し訳なさそうに謝ってしまう。

謝るときは申し訳なく感じているのも事実だが、実際の気持ちを深ぼってみるとどうもそれだけではない。

なんとかしてこの場を収めようとする気持ち、これ以上責められたくないと逃げる気持ち、自分だけが悪くないと気づいてほしい気持ちなど、さまざまな思いが根底にある気がする。すごくひどい言い方をすれば、自分が悪いという状況を、相手の罪悪感を喚起させてなんとかうやむやにしてしまいたいという心理がはたらいている。

つまりすぐ謝るとき、僕は納得がいっていない。受け入れられていないのだ。自分がなにか指摘されているという状況や、相手の苛立ち・怒りのような負の感情を受け入れきれていない。そんな事態を招いてしまった自分のことも、納得できていない。

もっと端的に言えば「こんな自分は嫌すぎる!」「こんなことが起こるなんてあってはならない!」「なんでこの人はそんなことを言えるんだ!」の気持ちだ。

優しさとはかけ離れている。僕がなりたい人間とは違う。

こんなコミュニケーションは、仕事や友達との間ではあまり出ない。しかし、距離が近く、家族のような相手には特に強く出てしまう。

でもそのとき、僕は自分の「意志」「人格」「能力」のせいにしている。相手に対しても同様で、相手が自分を責めているのはそういう「意志」「人格」「能力」を持っているからだとみなしている。

自分がこんなことをしてしまうのは自分のせいであり、相手が怒っているのは自分を痛めつけようという意志があるから、みたいな感じ。

それは正しいだろうか?すぐに大げさに謝ってしまうとき、僕は「地球上の生命は36億年くらい前に生まれたひとつの細胞からはじまり、長い時間かけて進化してきて、その過程に僕がいて、僕は小さな細胞と長い歴史から成り立つ複雑な生物であること」を忘れている。

性格・人格・能力みたいな「ふわっとした」もののせいにして納得している時点で、何か誤解していると思う。人の内面という目に見えないものがどう発達してきているのか、現在進行系でどんなものから影響を受けているのかを丁寧に紐解いていくほど、もはや意味がわからなくなるのだ。

高校の生物をちょっと丁寧にやってみるだけで、人がものすごい数の神経系やら脳組織やらホルモンやらの影響を受けているのがわかる。それだけじゃない。生命の発達過程で身につけてきたものも関係しているはず。なぜ人に対して僕は申し訳なくならなければいけないのかは、「申し訳なく思うような脳みそがたまたま人類の長い進化過程で生き残ってきたからだ」という説明だってできる。

感情だって、コントロールできるもののように思えるけど、そうだろうか。細胞ひとつとっても、外界に応じて行動を変容させる「クオラムセンシング」というシステムをもつ。そんな細胞が何個脳みそに詰まっているだろうか。ホルモンの分泌すら自力で調整できないのに。

僕は生物学をかじってから、世界が少し優しくなった。誰にも悪意があるわけではない。悪意というものが作られざるを得なかったのであり、ひどいことをせざるを得なかったのだ。僕はスピリチュアルをあんまり信じていないけど、もはや運命に近い。

物事には原因がある。それは事実だと思う。でも原因を掘り下げる手は、そう簡単に止めないほうがいいと思う。感情コントロール力が弱いなら「なぜ弱いのか」を考えなければならない。性格がねじ曲がっているなら「なぜねじ曲がっていると思うのか」を知る必要があるし、「いつねじ曲がるのか」を観察してみるべきだと思う。

そうして深ぼっていけば、いつか「どうしようもないじゃん」というレベルにたどり着く。言い訳じゃない。本当にどうしようもないのだ。

でも運命論と違うのは、変化が生み出せる点だと思う。原因を知るほど本当に効果的なアプローチは出てくるはずだし、観察するほど変化できる可能性は見えてくるはず。まだ専門家ではないから断言は難しいけど、そう信じてもいい気がする。ここは「信仰の自由」ぐらいのレベルだと思う。何を信じるか次第。

そうして「すべてそうせざるを得なかった」という態度で向き合ってみるのがスタート地点。もっと優しくなれそうだし、もっといろんなことを受け入れられるようになると思う。胆力が必要。じっくり鍛えていきたい。苦しいことではないと思う。穏やかに過ごしていきたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?