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山岡鉄次物語 父母編1-1

〈 奉公1〉生い立ち

☆物語は主人公の父親の生い立ちから始まる。

私、山岡鉄次にはもう二度と会うことが叶わない存在になってしまった父と母がいました。
私は長男ということもあって、父と母とは同居生活を送りました。
父と母は若くて一番良い時を戦争に奪われてから、苦労を重ねて来ました。
大正・昭和・平成と貧しい時代、激動の時代、物が溢れる時代へと変化に富んだ人生を送って来ました。

たぶん普通の人だっただろう父と母は、子供たちを育て上げ、それなりに人生を全うして幕を閉じた。
父と母は家族との生活の中の、全ての喜び・悲哀・葛藤を思い出の彼方に消し去るように、凛として静かに、死にゆく姿を目の前で見せてくれた。
今はただ尊敬と感謝しかない。

そんな父と母の人生がどのようなものだったのか?
私は振り返ってみたくなり、物語を父と母の話から始めることにした。
 

まず父、頼正の物語から始める事にする。

物語は、いずれ山岡鉄次が半生のほとんどを送ることになる蒼生市から、峠をひとつ越えた同じ県内にある、塩川市の貧しい小作農家から始まる。
藁葺き屋根の土間だけが広い小さな家だ。
頼正は大正14年に、父山岡浪頼と母花子の11人兄弟の次男として生を受けた。

戦後の農地解放が行われる前の農家は、ほとんどが土地を持たない小作農家だった。
土地を多く所有する自作農家は小作農家に土地を貸して、自分は農作業に従事しない地主となって、裕福な生活を送っていた。
山岡の家は小作農家のため地主に小作料として作物を納めていたので、苦労しても中々豊かさは味わえなかった。


頼正は貧しい上に子だくさんの家で、年長と云える子供だったので、幼い頃から家の手伝いや農作業など、それなりに苦労を重ねていた。

いずれ頼正の兄弟は、上に兄1人、下に妹6人弟3人の11人となるが、この時はまだ全員揃っていない。

小学校が尋常小学校と呼ばれていた時代、まだ小学校低学年だった頼正は、乳飲み子の妹を背負って学校に通っていた時期があった。母花子が生まれたばかりの赤子の世話で手が足りなかったからだ。

頼正の他にも赤子を背負って学校に来ている子が数人いた。現在では考えられないことだが、この時代においてはよく見かける姿だ。

学校に持って行く鞄の中には妹みね子のオムツが入れてあり、背中が濡れると机の上でオムツの取替をしなければならない。

妹のみね子は、主人公山岡鉄次の叔母にあたる人で、この先ずっと後の話になるが、この時の恩返しをするかの様に、鉄次のオムツ交換などの世話をするようになるのだ。


教室では背中のみね子が泣きだすと、先生から廊下に出ているように命令される。廊下に出てみると、赤子を背負った先客が、体を動かして赤子を寝かし付けていた。
他の子供たちから赤子が泣くとうるさい、オムツが濡れると臭いなどと言われ、勉強が進まないと、邪魔者扱いされていた。

勉強どころではなかった頼正は、幼いながらも辛い日々を送った。

しばらく時が過ぎたある日、小学校高学年になっていた頼正は父親の浪頼に言われた。

『頼正、東京へ奉公に行くんだ。』

頼正は、すでに長兄の頼長が地元の穀物問屋へ奉公に出ていたので、自分もいつの日か奉公に行くものだと思っていた。素直に従った。

頼正は小学校の卒業を待たずに、奉公に出る事になる。


目次〉〈 奉公2

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