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山岡鉄次物語 父母編1-2

〈 奉公2〉奉公

☆山岡の父親頼正の物語が続く。

頼正は東京の板橋で材木問屋を営む横畑木材へ奉公にやって来た。
昭和11年、この時の頼正は11歳、今で云う小学5年生ぐらいの年頃である。

この年には二・二六事件が起きていた。

二・二六事件は、2月26日から29日にかけて、皇道派の20名の陸軍青年将校等が1,483名の下士官・兵を率いて起こしたクーデター未遂事件である。
三宅坂から永田町一帯を占拠し、首相官邸をはじめ、大臣私邸等を襲撃し、高橋是清など数名の大臣や高官が即死し、負傷した。
青年将校は天皇を中心とした新しい政治体制を築く昭和維新を掲げ、国内の状況を改善し、政治家と財閥の癒着の解消や不況の打破などを主張した。

この事件の結果、岡田内閣が総辞職し、後継の広田内閣が思想犯保護観察法を成立させて、思想的団体への監視が強化された。

陸軍には統制派と皇道派の2つの派閥があった。
統制派は、陸軍の高官が中心の派閥で、政府や経済に介入し、政府を軍部寄りに変えていこうと考えていた。
皇道派は、天皇親政を目指し、そのためには武力行使も辞さないと考えていた。
二・二六事件の後、統制派が力を増す事になり、戦争への道をまっしぐらに進むことになる。

頼正は父浪頼に連れられて、初めて東京に足を踏み入れた。
自然の多い塩川市に比べて、周りを眺めても山が見えない、大きな建物や道路を走る市電は珍しかった。
この頃の東京はまだ、東京府東京市と云った。
東京都になるのは昭和18年の東京都制施行を待たなければならない。

横畑木材に入ってゆくと広い敷地には、たくさんの木材が積まれて並んでいた。
数人の男が板状の長い木材を車輪の2つ付いた荷車に積んでいた。
男たちに軽い会釈をして奥の方に向かうと、事務所らしき建物があり、奥の方の机には事務をしている女がいて、受付のような机には男がこちらを向いて座っていた。

浪頼が声をかけると、男の方が眼鏡をずらし、上目遣いに目が合うと事務所の中から出て来た。

男は横畑木材の主人だった。
浪頼が「息子の頼正です。」と頼正を紹介すると、主人は「この子かぁ、小さいなあ。」と言った。

お互いに挨拶を済ますと、主人と浪頼だけで事務所の中に入って、しばらく何やら話をしていた。

後で主人の言うには、頼正は尋常小学校を卒業していて、当然年齢も幾つか上の話を浪頼から聞いていたようだった。
東京に来てしまったものは、しょうがないと頼正を受け入れることにしたそうだ。

頼正は父親が何やらお金が必要になったんだなと思い、それほど気にもかけなかった。

奉公の期間は3年と決められ、頼正の父浪頼には3年分3百円の給金が前払いされた。
現在の貨幣価値では百万円足らずのお金である。

頼正の年齢のことで、約束の給金より下げられたようだ。

浪頼はお金を受け取ると塩川へ帰って行った。

戦前の昭和、貧しい小作農家のたくさんの子供たちは、生家の為に奉公にあがる時代である。

江戸期に始まった商家への丁稚奉公は、衣食住は与えられるが無給の務めだった。精進すれば将来において独立の布石になる場合もあった。

年季奉公は年間いくらかの給金が支払われたが、女性の場合の奉公は、遊女としての身売り奉公が多かった。借金の為に年季奉公を繰り返すなど、悲惨な制度と云える。

貧しい農家の口減らしの為の奉公は人身売買の様だった。
 
農家と言っても、小作農家は収穫のほとんどを地主に吸い上げられるので、懸命に働いても貧しさは変わらなかった。

このような奉公は小作農家、いわゆる水飲み百姓が耕作地を自分の物にする事が出来る、昭和22年の農地解放まで続けられていた。

この時頼正の家も、やはり小作農をしていた。頼正は年季奉公に来たのだ。

板橋での奉公はまだ幼い頼正にとっては辛く厳しいものになる。
横畑木材主人の奥方は給金の元を取戻すかのように頼正をこき使っていくのだ。

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