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【一生分の絶望を】アニメ映画『ルックバック』感想・レビュー

私の名は、ツユモ。
いま話題のアニメ映画『ルックバック』を見てきたので、今回はその感想を綴っていきたい。

まず初めに伝えておくと、各界の著名人からの大絶賛によって天高く上がり切ったハードルを悠々と超えていく大名作だった。
私自身そんなに涙もろい方ではないのだが、上映中に何度も目頭が熱くなってしまって、「たった58分で、人はここまで涙腺を刺激する作品を作れるんだ…」と一歩引いてメタ的な意味でも感動できた良い作品である。

めちゃくちゃ雑な言い方をしてしまえば、本作には主要人物の死で感動を誘う"お涙頂戴作品"とも言える展開が含まれている。しかしながら、日本を代表する有名漫画家の藤本タツキ氏の自伝的要素が含まれているためか、はたまた我々の脳裏に未だ色濃く残る京アニ事件の記憶を呼び起こすためか、そんな安い批判すら全く受け付けないほどの「迫真さ」「他人事じゃなさ」がこの映画からは感じ取れる。
2011年の東日本大震災の数年後、『シン・ゴジラ』や『君の名は。』など、「震災文学」としての側面を持つ大衆映画が大ヒットしたことは記憶に新しいが、今作もそれと近しい、我々日本人の集合的無意識を刺激するジャンルの娯楽作品と言えるかもしれない。


…まあ、そんなそこらの批評家が百万回述べてそうな分析はさておき、個人的に印象に残ったのは、つい先日鑑賞した『数分間のエールを』との対称性である。
上映館数も少なく、ややマイナー寄りの作品なので補足しておくと、『数分間のエールを』とは、2024年6月(『ルックバック』の2週間前)に公開された「モノづくり」をテーマとしたHurray!×100studioのオリジナルアニメ映画である。

一瞬「代々木アニメーション学院のCMか?」と思ってしまうほど、メッセージ性が強すぎるところは少々玉に瑕だが、創作に命を燃やす高校生の"青春の輝き"を味わうことのできる名作なのは間違いないので、『ルックバック』で心にダメージを負った方は是非観に行って欲しい。

▲まだギリギリ上映してるかな…?

そんな『数分間のエールを』の主人公・朝屋彼方は、MV制作を趣味とする高校生で、「自分の"モノづくり"によって、誰かを感動させ、その人を応援したい」という純真無垢な想いからモノづくりの道を邁進していくキャラクターである。
中盤では「自分の本気が相手に届かない」という創作者の心を折るシリアスな展開もあるものの、作品のタイトルに「エール」と付けられている通り、「モノづくりって大変で険しい道だけど、誰かのためになる"良いこと"なんだぜ!創作最高!!」という青春感満載のスタンスが本作を貫いているのが特徴だ。
そういったスタンス自体は全く嫌いでは無いし、この作品はこの作品として大変面白かったのだが、作品を鑑賞しながらどこかこの主人公に対しての不気味な「歪み」を感じてしまったのも事実としてある。

上述の感想記事を書いたときは、タイトルに「歪み」というワードを使っておきながらあまり上手く言語化できていなかったのだが、この「歪み」の正体が『ルックバック』を見てようやく理解できた。

創作活動とは本来、「応援する誰かにエールを送る行為」などではなく、むしろ「関係ない人間に石を投げる行為」に近いということである。
それが綺麗な石でたまたま相手の目の前に落ちれば拾って褒めてくれる人もいるかもしれないが、当たりどころが悪ければ激昂したり、襲いかかってきたりする人間もいるだろう。そんな当たり前のリスクが、この『数分間のエールを』という作品では、「届くか」「届かないか」という2択に単純化され、巧妙に隠蔽されている。
反対に"モノづくり"という行為によって、誰かに「数分間のエール」どころか「一生分の絶望」を与える最悪の展開になってしまったのが『ルックバック』という作品である。

本当に恐ろしいのは「自分の本気の創作物が届かないこと」ではなく、「届いた結果、誰かの人生を左右してしまうこと」なのだ。私自身、こんな創作とも言えないレベルの趣味の弱小ブログをやっていても、稀に激烈大罵倒コメントを書いている方を見かけることがあるので、職業として「創作」を生業としている方などは数百倍「何かを作り、それを発信すること」の恐ろしさを日々味わっていることだろう。

『ルックバック』の主人公、藤野は終盤で「私が漫画なんか描かなければ、京本が死ぬことも無かった」と絶望し、自分が漫画を描かなかったIFの世界を夢想する。ここには「自分の創作によって大親友の人生を壊してしまった」という重すぎる自責の念が込められているが、大元を辿れば「京本が学年新聞に絵を載せ、その上手さに藤野が衝撃を受けたこと」が二人の壮大な創作人生の始まりと言える。

つまり二人の関係性は、「藤野が京本の人生を変えた」という一方的なものではなく、京本もまた「創作物を発信する」という行為で藤野の人生を大きく変えているのだ。
もちろんそのおかげで藤野は将来的に人気作家になれたという"正"の影響も多くありつつ、絵に没頭しすぎるあまり家族や友人とも会話しなくなり、次第に社会や世間から隔絶されていくという"負"の側面も間違いなくあったことを忘れてはならない。

IF世界のラストで、京本は小学校時代の藤野の4コマを見て、その作風を模した漫画を描き、それが京本の部屋のドアを通じて現実世界で絶望する藤野の元に届く。藤野がその漫画を見て何を感じたのかは作品内では明言されていないが、それを見て「自分が一方的に京本の人生を変えてしまった加害者である」というのはある種"思い上がり"で、その関係が双方向的なものだったことに気づけたからこそ絶望から再び立ち直れたのだと私は考えている。
そして、自分がこれから生み出す創作物が、京本に起こった悲劇を生むような"絶望"ではなく、自分が京本から貰ったような"希望"になることを信じてひたすら机に向かうのだと解釈した。

さらにこの作品の凄いところは、創作という行為が「良いこと」だとも「悪いこと」だとも断じていない「メッセージ性の無さ」である。「創作活動」のもつ光と闇をどちらも正面から描き切ってはいるものの、その行いを決して賛美することも冷笑することもない。

創作によってあれだけの絶望を味わった主人公が最終的になぜ創作を続けることにしたのか、という心情を吐露する場面やモノローグも無く、エンドロールでも一言も発さず「ただひたすら描き続ける主人公の背中」だけを映し続ける覚悟こそがこの作品のもつ美しさだと感じた。

なんだか『数分間のエールを』を少し批判するようなまとめ方になってしまったので補足しておくが、決してどっちの作品が優れているかとか、深いか浅いかなどを論じたいわけではない。
おそらく『数分間のエールを』側の制作陣もいろんなことを分かりきったうえで、それでも「モノづくりの持つ光」だけを描くことに徹したはずであり、その割り切り方は一つの正解である。
『ルックバック』の最後で、創作が持つ「絶望」を知った藤野がそれでも「希望」を信じて創作活動を続けたことと同じように、「モノづくりのもつ"光"」を信じ続ける「祈り」としての作品が『数分間のエール』だったのだと思う。その祈りは、確かに「綺麗事」だし歪んでいる。でも、本当は綺麗事がいいし、だからこそ人はそれを現実にしたいと思うのである。

製作側が意識したわけでは全くないだろうが、「創作の生み出す光と闇」という共通のテーマを持ちながら、ここまで対極の作風を持つ映画がほぼ同時期にこの世に出たことは何か数奇な運命を感じる。
少なくとも私の中では、『数分間のエールを』を観たときに生じた、言い知れないモヤモヤが『ルックバック』によって昇華された。サブスク全盛期の現代ではあるが、「後から気になったときに見ればいいや」ではなく、「今この瞬間、映画館に足を運ぶこと」に意味があったな、と感じられた不思議な映画体験だった。

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