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【映画レビュー】『シン・仮面ライダー』に対して私が期待していたこと

はじめに

私の名はツユモ。
普段は、「恋愛アニメ映画マイスター」を生業として活動している。

しかしながら、今回は「恋愛」でも「アニメ」でもない『シン・仮面ライダー』の感想を語っていきたい。

たまにはそういう日があってもいい。自由とはそういうものだ。

私自身は仮面ライダーシリーズ(というか、ニチアサ作品)を長年追い続けて来た割とディープなオタクではあるのだが、一応今回の記事の方針としては、できるだけそういった方面に明るくない方でもそれなりに伝わるように書いていくつもりだ。

ただ、残念ながらこの記事では死ぬほどネタバレをする予定である。
嫌な方はすぐに引き返してくれて構わない。自由とはそういうものだ。

泡になって消えるキャラクターたち

ネット上では賛否両論分かれている映画ということもあり、まず自分がどっちよりのスタンスなのか示しておくのが感想ブログの礼儀かもしれないので、宣言しよう。

最初に言っておく!
この映画、私はかーなーり好きである。

ネットを見れば「庵野監督」の名前とともにさんざん語られていることではあるが、まず「仮面ライダー」という作品に対するリスペクトを随所に感じられるのは、オタクとして鑑賞していて非常に心地良かった。

例えば、作中で何度も登場する「人間や怪人がその死と共に、泡となって消える演出」は、怪奇色の強かったシリーズ第1作『仮面ライダー』の序盤で見られた演出のオマージュである。

CGや特殊効果を多用し、大量の予算と期間をかけて令和の時代に作られた最新映画である今作において、このいかにも昭和チックなアナログ演出をそのまま取り入れるとは、さすがオレたちの庵野監督だぜ…!
と腕組みをしながら見るだけで、仮面ライダーオタクにとってはあっという間に終わってしまう映画であることは間違い無いだろう。

とはいえ、ライダーキックやバイクシーンをはじめ、その他多くのシーンではCGを多用し、昭和の雰囲気など微塵も感じられないほどしっかり現代風にアレンジしていることを考えるに、庵野監督は単なる懐古趣味でこの演出を残したわけではないのではないか、と個人的に思う部分もある。

そもそも一般的なドラマにおいて「キャラクターが死んだ」ということを視聴者に伝えたいだけであれば、その人物がその場で倒れて動かなくなるだけで十分なのだが、「仮面ライダー」という作品はそれを許さない。

「秘密結社ショッカー」という悪の集団の人智を超えた恐ろしさと圧倒的な科学力、そして死体すら残らない無常さを視聴者の印象に残すべく、死体が泡になって消える演出を第1話だけで2回もじっくり丁寧に見せる。

ここには、「現実や一般ドラマでは決して味わえない、ヒーロー特撮というジャンルだからこそ与えられる特別な感情を視聴者に提供したい」という、制作陣の純粋かつ並々ならぬ野心と熱量が詰まっていると私は思うのだ。

「人の形に泡が残って消える」という絵面の絶妙なシュールさは、正直令和になって大スクリーンで見ると「お粗末」に感じた観客もいたかもしれない(というか当時のオマージュであることを知らない大半の観客は「え?なにこれギャグ?」ってなったに違いない)
もっというと、当時リアルタイムで『仮面ライダー』をテレビで見ていた子供たちにすら低予算感を感じるチープな演出に見えたかもしれないが、それでもその記憶には深くこびりついたはずである。(私は全くリアルタイム世代では無いが、10年近く前に配信で視聴して妙に記憶に残っている)

この「現実や一般ドラマでは決して出来ない夢を作ろう、という制作陣の巨大な熱量」と、「予算・時間・技術・放送倫理などなどいろんな現実的な制約を受けて出力された実際の映像」の間にあるギャップこそが日本の特撮、および常に挑戦を続けてきた「仮面ライダー」というシリーズの魅力の一つだと私は思うのだ。

ちなみに、当時の『仮面ライダー』において「泡になって消える」という演出が成功だったのかはさておき、以降の仮面ライダーシリーズにおいても、人間や怪人が特殊な死に方をするという要素は度々継承されていく。
「爆発して死ぬ」というのが一番メジャーなパターンではあるが、そのほかにも『仮面ライダークウガ』の怪人は街一つ吹き飛ばすほどの大爆発を引き起こし、『仮面ライダー555』では「灰」になって消え、『仮面ライダーキバ』では「ステンドグラス」のように砕け、『仮面ライダーオーズ』ではメダルとなって飛び散る。

もちろんここには、直接的な流血描写が子供向け番組としての放送倫理に反するため、ぼかした表現を取る必要があるから、という現実的な理由も多分に含まれる。
それでも「現実ではありえない夢を実写作品で描き続ける」という制作陣の想いが、「キャラクターの死にざま」一つとってもこれだけ浮かび上がってくるのは仮面ライダーシリーズならではだろう。
『シン・仮面ライダー』において「泡になって消える」という要素を描くにあたり「組織の秘密保持のため体が融解する」と、理論的にはもっともらしい理屈をつけていたものの、演出自体はあえて現代風にせず、洗剤のようなふわふわの真っ白な泡が人の形にそのまま残る昔ながらの映像にしたのは、そこに仮面ライダーというシリーズの「魂」があると感じ取ったからではないだろうか。

そのほかにも、オタク心を刺激してくるシーンは数多い。
あまりネット上で指摘を見ない部分で言うと、本郷猛が海岸で政府の人間に対して、かつて父親が通り魔に理不尽に殺された壮絶な過去を打ち明けるシーンが個人的には印象に残っている。
辛そうな顔で過去の悲劇を語る本郷猛に対して、立花は一切同情の姿勢を見せることなく、「そんな絶望くらいみんな経験している。だが、その乗り越え方は人それぞれだ」と突き放した言い方をする。
非常にメタ的…というか作劇上の話になってしまうが、実は仮面ライダーシリーズにおいて、家族を事故などで理不尽に亡くしたキャラクターは非常に多い。
「仮面ライダー」というシリーズに限った話ではないと思うが、キャラクターの行動原理の根底となる正義感や、危険を冒してまで怪人と戦う理由を説得力を持って視聴者に示し感情移入させるためには、自分自身が過去に大切な人を亡くした、という経験を持たせるのが一番手っ取り早いのである。
そういった意味で長年仮面ライダーシリーズを見て来た人間にとっては、随所に散りばめれた本郷の過去回想を見ても同情より先に「あ、今回もそういう重い過去持ちパターンの主人公なのね」と冷静に分析できてしまうところがあり、立花のドライな反応と妙にリンクしてしまって興味深かった。
これも自身が仮面ライダーファンであり長年シリーズを追いかけて来た庵野監督だからこそ出て来た台詞ではないだろうか、と推察している。

「仮面ライダー」を超えていけ

ここまで概ね良かった点を語って来たが、仮面ライダーシリーズのオタクであり、今作のファンでもあるこの私も、本作が手放しに褒められる出来では無いことは重々承知している。
これまで「オタクなら楽しめる」という表現を多く使ってきたが、裏を返せば「ライダーファンじゃない方の目から見たら、そんなでもないかもな…」と思ってしまう要素はいろいろある。

まず本作のオチとして、一文字隼人=仮面ライダー第2号が、泡となって消滅した本郷猛の想いを受け継いで「仮面ライダー第2+1号」として旅立つ、という展開になっているが、落ち着いて考えると、この作品を締め括る結末としてはいささか不自然では無いだろうか?

というのもこの映画の大半の時間は、「本郷猛」というコミュ障な青年と、「ルリ子さん」というクールで本心を見せないヒロイン、という人間として不器用な者同士が協力して各地で暗躍する怪人を討つロードムービーに割かれてきたわけである。
彼らに比べると一文字隼人などという人間は、その道中で偶然出会い、目的の一致から共闘しただけのゲスト的な存在であり、物語の中で正式に仲間として加わったわけでもない。さらに言えば、本郷と数回言葉を交わしただけで、ルリ子さんとはほぼ直接的な交流はないし、隼人という人間のバックボーンを掘り下げるような描写もほとんどない。

そんな人間が急に「本郷猛」という人間の最大の理解者のような顔をして、その意志とともにバイクで颯爽と走り去るというのは、個人的にも少し違和感がある。このオチにするなら、冒頭から一文字隼人を出し、本郷猛と絆を深める描写を丁寧に描くのが当然だろう。

ただ、実は今作の結末は漫画版の『仮面ライダー』のオマージュであり、意識だけの存在になった本郷が語る台詞も全く同一なのである。実は私自身もこのオチが漫画版のオマージュであることは、観賞後に初めて知った。
そのため、やや今作の結末を不自然に感じる部分はありつつも、ただ、オタクとして逆に知らないなりにこのオチがしっくり来た部分もある。

というのも、この本作の中で描かれる「1号から2号への継承」という要素は、これまで1年ごとに作品を刷新して続いて来た「仮面ライダーシリーズ」そのものの流れを想起させるからである。
仮面ライダーというシリーズは、「シリーズ」と言いながらも毎回前作と作風が全く異なる作品を打ち出すことで有名であり、その自由奔放さこそが常に時代に寄り添う国民的ヒーローにまで作品の地位を押し上げる大きな原因となった。

今作において、1号の想いを継承する立場である一文字隼人は、感情表現が下手くそでいわゆる「コミュ障」である本郷猛とはまさに真逆の人間で、「自分が好きか嫌いか」という直感的な感情を行動理由に飄々と生きる男である。
この1号と2号の対極さや、この二人が最低限しか言葉を交わさないというのは、平成ライダー以降ほぼ伝統となっている次の仮面ライダーが映画でゲストとしてちらっと出て来て敵だけ倒して帰る「先行登場」に近い雰囲気を感じた。あくまで今作は1号=本郷猛の物語であり、2号=一文字隼人はその1号の物語の終盤に次回作の番宣も兼ねて顔見せのためにちらっと出て来たにすぎない、と理解すればこの描かれ方は非常に納得できる。

とはいえ、全く別作品、別のキャラクターでありながら同じ「仮面ライダー」という名を掲げて戦うヒーロー同士には、直接的に絡みが描かれなくても「繋がり」を感じるし、最新のライダーの後ろには常にそれまでの仮面ライダーの歴史がつきまとう。
たとえ肉体が滅んでも(作品が終わっても)次の仮面ライダーの目や心を通して、昔の仮面ライダーが生きた魂は継承されていく、というのはまさに美しい結論だ。

また、「継承」をするのがバイクやマフラーやベルトではなく「仮面」というのも唸らされた点である。そもそも、「仮面ライダー」というヒーローの定義は非常に難しく、「ベルトで変身する」「"変身"と言う」「バイクに乗る」「マフラーをしている」といった一般的イメージから逸脱した仮面ライダーも無数に存在する。
その中で、かなり答えに近いと個人的に思っているのが「スーツアクターが仮面を被る」という点である。
※肉体変化系のライダーは設定上仮面をかぶっているわけではないので、「スーツアクターが」とつけている。

(顔の下半分であればライダーマンが該当したり、機能として顔を出せると言う意味では仮面ライダー純が該当したりするが)変身前の顔を常に全面露出した仮面ライダーは公式的にはおそらくほぼおらず、その名の通り「仮面を被る」ことこそ、仮面ライダー(というか日本の特撮ヒーロー全体)を象徴する要素かもしれない。

▲海外では顔出しヒーローは珍しくない

そのほかにも今作では、ルリ子の遺言や記憶を残すバックアップ装置としてであったり、それを見た主人公の涙を覆い隠すものであったり、心優しい主人公が怪人を殺す理由づけとしての洗脳装置としてであったり、「仮面」の使い方が非常に上手かったと感じる。(途中まで「バイクに乗るときのヘルメットと、ライダーとしての仮面を常に持ち歩くの邪魔じゃない?」と思っていたのだが、バイクのヘルメットがそのまま仮面に変化したのは今までありそうでなかった発想で印象深い)

少し脱線したが、このように今までシリーズを長年追って来た補正によって、本作の結末もオタクにとっては割とすんなり受け入れられるし、感動できるところが大きかった。
ただ、その補正がない方にとっては、前述の通り「何か一文字とかいうポッと出のチャラ男が良い感じに締めたな…」という感覚で劇場を後にしてしまうのではないかと少し不安視している。

あとは、シンシリーズの俳優との繋がりや、彼らが最後に「滝」「立花」と名乗る衝撃もオタク以外には伝わらない気がして勿体無い…
また、次々に出てくるオーグたちについても、「となりのヤングジャンプ」にて連載中の『真の安らぎはこの世になく』を知らないと処理が追いつかない部分もあり、数多のスピンオフ作品を追ってないと本編を100%楽しめなくなっている最近の仮面ライダーシリーズの悪い部分まで踏襲しているようで複雑な気持ちにならざるを得ない。

これ以上書くととりとめがなくなりそうなので、最後にアクションについても軽く触れて締めたい。
今作のアクションシーン自体はオタクかそうでないかに関わらず楽しめた点であり、サイクロン号が風を受けて変形するシーンや、コウモリ怪人の飛行に追いつくためにマフラーを下に向けて飛び上がるシーンなど、童心に帰って「カッコよすぎる…!!」と思った大人も多かったのではないだろうか。

また、冒頭の昔ながらのヒロイックな仮面ライダーのBGMが流れながら、しかし映像としては襲いかかる戦闘員を生々しい血飛沫と共に薙ぎ倒していくライダーの姿のアンバランス感も、今までに無い奇妙な魅力を放っていて心を掴まれた。

ただ、残虐描写自体は『仮面ライダーアマゾンズ』や『仮面ライダーBLACK SUN』などその他の大人向け作品の中でいくらでもやってきたことではあるので、『シン・仮面ライダー』を名乗るならもう一歩飛び抜けたものを見せて欲しかったと思う部分も多い。
また、個人的には全体としてややCGに頼りすぎな感じもしていて、「ニチアサだったらこのカットはワイヤーアクションで再現してただろうし、そっちのパターンで見たかったな…」となったシーンがちらほらある。(ダブルライダーキックのシーンとか)

まあ色々と述べて来たが、総評すると、オタクとしては大満足だが、オタクじゃない人には「どう映ったんだろう…」と心配になる部分の多い作品であった。
ファンの私がこんなことを言うのもなんだが、正直「仮面ライダー」というシリーズは少子化のいま逆境に立たされ、だんだんと時代のスピードに追いつけなくなりつつあるコンテンツだと思う。

『シン・仮面ライダー』が発表されたとき、誰もが名前を知るあの「庵野秀明」が監督した仮面ライダーが出るということで、これはシリーズとしての新規ファンを大量獲得し、コンテンツの寿命を一気に伸ばす大チャンスだと大いに期待した。日本だけでなく全世界で上映される、というのも海外進出に苦戦しているライダーを救う光になるかもしれないと感じた。

ただ鑑賞した結果としては、「勝手に期待してハードル上げまくっておいてなんだよ」と言われるかもしれないが、今作がそこまでの領域に達していたか、新規のファンを大量獲得できそうか、と問われると「はい」と即答はできない作品に仕上がっているのは正直少しがっかりした点である。(これからめちゃくちゃ伸びる可能性ももちろんあるが…!)
言うまでもなく面白い作品ではあるのだが、前述の通りシリーズの50年以上の歴史の中で大人向けの「仮面ライダー」は多数制作されており、その中で今作が突出してオススメであるとは言いきれない。(なんならAmazonPrimeビデオで見られる『仮面ライダーアマゾンズ』などの方が、新規にオススメしやすい面白さがあると思う)

細かい点で言うと、『シン・ウルトラマン』のメフィラス構文のような使いやすいネットミームや、『すずめの戸締まり』の芹澤や、『ONE PIECE FILM RED』のウタのようなキャッチーなキャラクターがいるわけでも無いのも、新規への広がりやすさという点を考えるとマイナスポイントだろう。

ただ、幼い頃に少しでも「仮面ライダー」というものに触れたことがある人間なら、絶対損しないクオリティの作品であることは間違いないし、万が一この記事を読み切ったにも関わらずまだ映画館に足を運んでいない方がいるなら、是非自分の目で「庵野秀明」という超一流のクリエイターが生涯かけてハマった「仮面ライダー」という作品の髄を味わってほしいと思う。

そしてあわよくば、毎週日曜朝9時から放送中の『仮面ライダーギーツ』も見てほしい。(話数は長いけど、TVerで一週間見逃し配信や、アマプラでの全話配信もやっていて追いやすいので…!!)

仮面ライダーの未来は、今この瞬間瞬間を必死に生きている我々に託されているのだ。

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