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燃え尽きない、という抱負。

「今年こそ、やります!」

タイムラインに、勢いよく熱意が込められた言葉たちがずらりと並ぶ。それはさながら「欲」のデパートのようで、独特の熱気を孕んでいる。テレビも、ブログも、YouTubeも。発信という行為が行われるメディアでは法人も個人も関係なく、風物詩とでもいうように様々な人の目標や欲がひしめき合う。

その熱気を、少し遠巻きに見るような気持ちで流し見してから、そのままスマホを布団の向こうに放り投げた。

私はもう一度布団に入ると、抱負というものについて改めて思考を巡らせる。たぎるような熱意も、他人を押し退けんばかりの勢いも、なんだか今の自分には酷く重くて受け止めきれないように感じた。

じゃあ、私の抱負ってなんなんだろう。今年は、どんな1年にしたいのだろう。そんなことをうつらうつらと考えていると、ふっと頭の上に、自然と一つのフレーズが降りてきた。

「燃え尽きない」

あ、これだな。と妙に腑に落ちるものを感じた。我ながらよくしっくりくる言葉を思いつくものだと感心して、また深く頭から布団をかぶった。

同時に、それはどうにもこれまでと大きく毛色の違う言葉だとも思った。鼻息を荒く過ごしてきた20代の、荒々しい自分の抱負とは全くといっていいほど別物だったのは少々気掛かりだった。それは自分の中の一つの潮目というか、何か大きなものが静かに、地殻変動を起こしているようにも感じられた。

そんな新しい年の始まり。燃え尽きない、という新しい匂いのする抱負の背景について、まずは思考を巡らせてみようと思う。

抱負という習慣

年始といえば「今年の抱負」を述べる。これは皆さんにとっても、すごく馴染みのあるお話だと思う。

この時期になると今年こそ、今度こそと、大人から子供までたくさんの人が息巻いてその旨を掲げる。それは仕事のことだったり、プライベートのことだったりと様々だけれど、やはり「抱負」を高らかに声に出すのはこの時期特有だ。

スマホの中だけでなく、初詣の参拝をしているだけでも、周りの人の熱気に当てられるような感覚がある。

でもよくよく考えてみれば、元旦になったからといって昨日までの自分の何かリセットされるわけではない。もちろん、これまでの過去が無かったことになるわけでもない。実態としてはただただ今日という日付が変わり、いつもの少し寒い朝がきた。本当はただ、それだけのことのはずである。

それなのに私たちはなぜか「年始」に特別な何かを期待する。

去年までの自分の行動や思想を全部リセットして、新しい自分を迎える。まるでゲームで新しいアカウントを作ったかのように、嫌なことも不出来なこともすっぱり精算して、無かったことにする。そして人々は晴々しい気持ちで、負債のない新しく訪れた今年を、特別で、より良いものにしようとするのだ。

なんとご都合主義で、人間らしい習慣だろう。そう感心してしまうのは私だけだろうか。

抱負という呪い

加えて「抱負」というものはインターネットというものを介し、近年は積極的に人様に晒されるようになってきたようにも思う。

昔は習字で書いて学校の教室の後ろに張り出されるのが関の山だったが、今は元旦でなくとも挑戦や意気込みは他人に見せてナンボで、シェアして初めて意味があるような扱われ方が増えてきた。

そしてそれは大きいほど、無茶なものであるほど良いと思われる。

むしろそれは本人というより、周りが捲し立て祭り上げているような流れもあるが、いよいよその抱負とか目標みたいなものが、時にインフレを起こしているようにも感じられる。これを「抱負という呪い」と名付けたいのだが、日本人固有の同調圧力とも相まって「すげー目標を、仕事に全力な感じで共有する」のがカッコいいように矯正されている感じがするのだ。

そして共有する、ということは抱負の「視聴者」がいるということでもある。

それは会社の同僚や上司であったり、SNSのフォロワーであったりする。ギャラリーに勇気を与え、よしよしちゃんとやってるなと思ってもらえるだけのやる気をアピールする。でも奢ってもいないし、誰も傷つけていない。そんな四方よしの抱負は、正直なところ想像するだけで頭が痛くなってしまいそうになる。

事業を10倍にするとか、何かで1位になるとか、業界を牽引するとか。別にそういうのが悪いというわけでもないし、闘志を燃やして走るのが得意なタイプの人もいるのだから、とやかくそれを後ろ指したいわけではない。でも、そういうものを、自分も同じような言わなければいけないような気がしてしまう。そう思うと、正月明けの胃もたれした内臓が締め付けられるような酷く重苦しい気分になるのだ。

でも、それでも今年の自分に降りてきたのは「燃え尽きない」という、これまでの自分の抱負レパートリーには決して並ばなかった言葉だった。それはけっこう意外で、同時にひどく納得感があった。

それは私の中で一つの呪いが解けかかかっているような、そんな幕開けの合図のようにも思えたのだった。

燃え尽きた2ヶ月を超えて

思い返してみると2021年の前半、約半年続いたその時間は私にとってはあまりにも目まぐるしかった。

まず年明けの1月に、初の著書を出版した。

本を出せるという嬉しさはもちろんあったが、それ以上に市場の反応や売れ行き、誤植がないか、何か表現に落ち度がないかという細かい心配事の総量の方が遥かに優っていた。ありがたいことに告知やイベントも何件かさせていただいたが、正直なところ内心は心ここに在らずであった。

さらに出版周りに話が落ち着かないまま、立て続けに同年3月頭にリリースが控えていたデザインスクールが佳境を迎えた。責任者としてようやくよちよち歩きが出来始めた時期であり、それでも慣れない営業と、法務と、各所の準備に追われて完全に心身は摩耗していた。

何かあったら、何かトラブルがあったら、全部責任が取れるように立ち回らなければ。呪文のように、頭の中で「責任」という言葉がメリーゴーランドのようにぐるぐると愉快に回り続けた。

それは簡単に胃に穴が開くような、重く粘っこいプレッシャーが降りかかり続ける嫌な時間だった。

ちなみにそんな事業プレッシャーの中、同年4月で丸1年になるYouTubeチャンネルの登録者数が1万人の王台を突破した。出版やら事業の準備もあり思うように更新できていなかった歯痒さはあったものの、目標であった1年で1万人を達成できたことは本当に嬉しかった。

今思うとこれだけ事業のリリースが迫って摩耗している最中だというのに、感覚が麻痺していたのか結構な動画数を公開した。なんなら人生初のYouTubeライブの生配信までやってのけた。

そんなこんなで、訳もわからないまま走り抜けた昨年春。うれしいことに私の心配は杞憂に終わり、無事にデザインスクールは5月に開校。3ヶ月にわたる運営も特に大きなトラブルもなく、7月末で第一期生の卒業となり嬉しい言葉をたくさんいただいた。本当に本当に、全てが洗われるような気持ちだった。


しかしその後、どうにも記憶がないのだ。

もちろん記憶喪失というわけではないのだが、なんというか、あまり頭や体に力が入らなかったのだ。生活はできるし、仕事もする。だけど大好きだった登山や、一人旅にも行く気が起きず、家の中で昼寝をする時間がとても増えた。春先に比べれば日中に余暇時間もできたはずなのに、どうにも動画を撮ることができない。

なんか変だな、とは思ったものの、ちょっと疲れているなとか今週は体調が微妙だからゆっくりしようとか、私はあまり深く考えずに行き当たりばったりの対応をしていた。今思うと、とてもそこまで思考を掘り下げることができる状態ではなかったのかもしれない。でもよくよく考えてみれば、その感じが夏から2、3ヶ月は続いていたのだ。

気力が出ないという言葉の真意を、ようやく体感できたようにも思う。でも鬱のように完全に動けなくなってしまうわけでもないし、眠れないわけでもない。仕事の締切だって守れる程度には頭は使えるし体も動く。だからこそ些細な体調不良として流してしまっていた。

今思えば、私は燃え尽きていたのだと思う。

物理的な頭と体だけがここにあって、それ以外がすっぽりと抜け落ちてしまっていた。自分の内臓の裏側にあったはずの思考や、感情といったものが、少し先の道端にポツンと置き去りにされていた。

燃え尽きず、歩き続けるために。

バーンアウト(燃え尽き症候群)は、「何か打ち込んでいた人が、長く続くストレスなどによって意欲や感情が枯渇してしまう状態」を指す。以前はエッセンシャルワーカーの方々で比較的よく見られる症状だったそうだが、近年ではより広い職種で見られるようになったという。

頑張るのは簡単で、無理をするのも簡単だ。

ギチギチに予定を詰めて、寝れない程の仕事を受けて、必要以上の充実感や収入を、評価を求めて躍起になる。この行動を、私は決して責められない。なぜなら自分自身が、まさにそういう劇薬をガソリンにして20代という悪路を走り切った自負があるからだ。

生存者バイアスも大いに関与していると思うので話半分に聞いてほしいが、やはりその過剰な勢いと経験もあって今の働き方や生き方があると思っているのも一つの事実だと思う。

それでも、周りで仕事や人生から退場する人が幾分増えた。その事実だけは、私は目を逸らしてはいけないと思うのだ。

働きすぎて、外に出られなくなった知人を知っている。人生を続けられなくなった友人がいる。大事だったものが何かわからなくなって、色んなものを知らず知らずに壊した人を知っている。豊かで、便利で、なんでも共有できるこの時代に、過剰な夢や抱負が持つ負の側面を、私は見逃してはいけないように思う。

燃え尽きず、生きていく。

案外、これは難しい抱負なのかもしれない。変われと叫ばれる時代に、動けと突き動かされる時代に、低燃費で行こうというのはいささか怠けているように映るかもしれない。それでも世界のサステナビリティが叫ばれるこの世の中で、仕事や人生の「継続性」を考えることは筋が悪くないように思う。

どのように増やすかではなく、何を減らすか、やめるかの方が難しいこの時代に。わたしは数年で全てが燃え尽きるよりも、トロ火で50年60年楽しみたいと今になって思う。たまには大きな薪をくべるのもいいだろう。でも薪は決して切らさないし、火種は絶やさないほうが楽なのだ。

わたしが燃え尽きない、心地よいトロ火の境界線はどこなんだろう。そんな年始に降って湧いた目新しい今年の抱負を、ゆらゆらと揺れ動く焚き火の守り人のように、手探りしてみる。

そんな、また新しい一年にしてみようと思う。

読んでいただいただけで十分なのですが、いただいたサポートでまた誰かのnoteをサポートしようと思います。 言葉にする楽しさ、気持ちよさがもっと広まりますように🙃