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「選択できる孤独」

少し前に、老人を四六時中見守ることは、「疲れた時など、一人になりたいと思うことを許さないことであり、老人たちにとっては息が詰まるので『選択しない孤独』つまり会いたい時に誰もいないという状況をのみ見守るのが良い」という文章を読んだ。

そして今日、「一緒にいて楽しい人よりも、離れていて寂しいと思う人を選びなさい」という文章を見かけた。

これについても思うのは、自分は本当に「さみしい」という感情が欠落しているんだなということ、特に「誰かが」いなくて寂しいと思うことは皆無に近いことを再確認した。

離れて住む親については、心配はしていない。

そして離れて住む友人についても、「ああ、この人たちは元気そうでいいなあ、たまには顔見に行きたいな」と思うものの、だからといって「離れていてさみしい」とまでは思わないな、というのが正直なところである。

アセクシュアル、アロマンティックという二重の感覚がある自分にとって…
ざっくりいうと、アセクシュアルというのは、性行為がなくても大丈夫、アロマンティックというのは、恋愛関係がなくても大丈夫という意味だが興味のある方は調べてみるといい。LGBTQの深い世界について知ることができるだろう。

ノンバイナリーである自分にとっては、男性の暴力的なところと女性のヒステリーなところが嫌いで、もともと保育園でも同級生に下着を脱がされるなど、周りから見てもどっちかわからないし、自分でもどっちかわからないという感覚で育った。ドラえもんで育ったので、「女の子はピンクなのか」と折り紙でピンクを選ぶことはあったのだが、ピンクを着ると豚に見えるからやめろ、青を着るとドラえもんに見えるからやめろといろいろうるさく言われて育ち、母親が父親に泣きついて「だから女は」と思ったことや、父親が「俺の女を泣かすな」という感覚で母親を庇ったことなど、(そう言ったことはないのだが、感情が読み取れた)「男は所詮泣く女に弱い」と、両方の性の代表を見下す結果になった。

それから、男子と遊ぶというわけでもなく、女子と話しても恋愛話ばかりで面白くなく、それからノンバイナリーと気づくまで44歳になるまでかかってしまったが、とにかく一人行動が多かった。

死ぬ時はどうなるのかと考えたが、たとえ非公式でも遺書のようなものを書いておけばいいのだと思うし、心霊関係のフィクション小説で「死ぬその時」の話を聞いて、そう気負うものでもないと気が楽になった。血糖値と脂肪、鬱、パニック、膝と足腰以外は極めて正常なのである。

しかし糖尿病やあれこれの疾病や身体の痛みがあるので、いつ死んでもおかしくないとは思っているので、残りの寿命がどのくらいかわからないなとうっすら思うようになり、その中で、四六時中見張られているのは嫌だなという気持ちが強くなってきている。

前から、どうせ協調できないんだから放っておいてくれという気持ちはあったが、今も最大限振り絞って生きているつもりなので、ベッドという充電器、家という発電所にいる間は放っておいてほしいというのが本音である。

来客や、こちらから出向くのは、予約がないと無理なタイプでもある。祖父母の一軒家に住まわせてもらっていた時は、予約もなしに来客がいっぱいきたのを、苦々しく思っていた。
「こいつら暇か」とすら思っていた。

時間泥棒だと思っていた。

今、コロナの時期を経て、「おひとりさま」という存在が生きやすくなってきたように思うが、反面、「リモートワーク」など、誰かに会う気持ちになっている時にリモートで画面を見ながらでしか会えなくなっているのは、「選択する孤独」とはいえない気もしている。
人に会って働きたい人,人にできるだけ会わずに働きたい人、定年を迎えた人でも会いたい時に実際に会える機会は大事である。
そうすると、英会話講座なども、オンラインやChatGPTよりも、実際に会って教わりたい人もいるのかもしれない。
そう思うと、少し、クリエイター、自営業候補として講座の一つも開いてみようかなあという気になるのである。
一時的なものではあるが。
実際に会える機会を持ちながら、一人になりたい時は一人になれる。そんな生活が、老人だけではなく、人間全般に大事なことではなかろうかと思う。

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