梅松論 (下)
27.結城親光の討死
建武三年(1336)正月十一日の午の刻(正午頃)、将軍(足利尊氏)は都に攻め入り、洞院殿公賢公の御所に御座された。降参の者どもが大勢参上し、名前を記すのに暇がないほどであった。
そのような中で、結城太田大夫判官親光の振舞いはまことに忠臣の儀をあらわしたもので、それを見た人はもちろんのこと、聞き伝えた者たちも誉めない者はいなかった。
十日の夜、山門(比叡山延暦寺)に臨幸の時、(親光は)御輿に追い付き奉ると、馬から下りて兜を脱ぎ、御輿の前にかしこまって次のように申し上げた。
「このたび官軍が鎌倉近くまで攻め下り、泰平になるべきところだったのに、そうはならず、天下がこのようになってしまったのは、大友左近将監が佐野で心変わりしたのが原因です。何とかして君のために一度は命を奉りたいと思っております。御暇をいただき、偽って降参して大友と刺し違え、死をもって忠を尽くしたいと思います。」
こう申し上げると、思い切った様子で下賀茂から帰ったが、龍顔を拝し奉るのもこれで最後と思うと、不覚の涙が鎧の袖を濡らした。君も遥かに御覧になり、見送って、頼もしくも哀れにも思し召し、御衣の袖を涙でお濡らしになった。
やがて、東寺の南大門に大友の手勢が二百騎余りで現れた。
親光は一族の益戸下野守と家人数人を召し連れ、残りの勢は九条あたりに留めおいて、大友の元に行って降参したい由を偽って言った。
大友は即座に受け入れ、樋口東洞院の小川の両岸に分かれて、連れだって将軍の元に向かった。
途中で大友が、「将軍の御陣に近くなりました。法ですから、御具足を預かりましょう。」と言うと、親光は言った。
「我らが味方に参上すればやがては一方の大将として忠節を尽くすはずなのに、戦場で具足を渡さなければならないのは残念です。しかしながら、御辺をお頼み申し上げたからには、恥辱を与えないようお計らいください。」
こう言うと、帯びていた太刀を持ち上げて、川を西へ渡った。
大友が、「将軍に御対面したあと、お返ししましょう」と言って、太刀を受け取ろうとすると、親光は馳せ並んで抜き打ちに切り付けた。
大友はただちにむんずと組み、親光はその場で討たれた。親類十人余りも、同じ場所で引き組み引き組み討死した。
大友は、目の上を横に切られた。深手だったので鉢巻で頭を巻き、輿にのって親光の首を持参した。その様子は、まことに勇ましく見えた。
樊於期、予譲の振舞いは遥かに聞くばかりであるが、親光の忠節を尽くしての最後の振舞いは、昔も今も珍しいことと思われた。弓矢に携わる人々は皆、「あっぱれ勇士。誰もがこのようにありたいものよ」と涙を流し、誉めない人はいなかった。
益戸下野守も同じ時に討死し、大友は翌日死んだ。敵が出し抜いたところに素早く打ち合ってただちに討ち取り、自身も将軍のために命を捨てた。その振舞いは、何にたとえたらよいのかわからないほどである。
28.洛中の合戦・その1
そうしたところ、正月十三日から三日間ほど、山田矢橋の渡船で、宮(義良親王)と北畠禅門(北畠顕家)の率いる出羽陸奥両国の軍勢どもが雲霞のごとく東坂本に参着した。やがて、大宮(日吉神社)の彼岸所を皇居とし、三塔(比叡山の東塔、西塔、横川)の衆徒が残らず従い奉った。
三井寺は元々将軍(尊氏)の味方だったため、敵が園城寺(三井寺)を焼き払うという知らせが入った。そこで、三井寺に合力するために、新手の細川の人々を大将として、四国中国の軍勢が正月十六日払暁に発向した。
同時に出羽陸奥の勢は北畠殿(北畠親房)の子息、国司顕家卿に従って、義貞を大将として三井寺に向かった。
大道と浜辺と二手に分かれ、数刻にわたって攻め戦ったが、三井寺の衆徒が敗れたため、同寺を焼き払って武家の勢はことごとく京中に引き返した。
ここに至って、両大将(尊氏と直義)は二条河原に打ち立たれた。
正午頃、軍勢が上は糺の森、下は七条河原まで進んだところで、義貞を大将とする軍勢が錦の御旗に中黒(一引両。新田氏の紋)の旗を添えて、粟田口の十禅師の前から三条河原の東の岸に、西に向かって待ち受けた。
味方は大軍で鶴翼の陣を取って取り囲み、数千騎の軍兵が旗を虚空にひるがえし、鬨の声は天地を驚かし、互いに雨のように矢を射懸けあった。剣を振りかざす暇もないほどに激しく入り乱れて戦って、人馬の骸が山をなした。川は紅に染まり、人馬の血に楯を浮かべて戦っているかのようだった。
官軍は千葉介(宗胤)、義貞の配下で一人当千の船田入道(船田義昌。新田義貞の執事)、由良左衛門尉をはじめとして千人余りが討ち取られた。味方にも大勢の手負い討死が出た。
夕暮れになって宮方の負けいくさと見えた時、味方が勝ちに乗じて攻め戦っていると、義貞が自ら旗を指し、親光(結城親光)の父の結城白河上野入道(結城宗広)とともに千騎あまりで返し合わせて来た。
白河の常住院の前から中御門河原口に押し詰められた時はとても耐えきれないと思われたが、小山・結城一族が二千騎余りで入れ替わって火花を散らして戦ったので、敵は敗れて鹿ヶ谷の山に引き揚げた。敵の勢は、残り少なく見えた。
この十六日の戦いは、酉の刻頃(午後6時頃)に終わった。
敵の上野入道(結城宗広)と味方の小山、結城は、共に一族であった。互いに名乗り合って戦い、双方とも百人あまりの討死が出た。敵も味方も紋が同じで、同じ小筋の直垂(ひたたれ)を着ていたので、今後の合戦で同士打ちするに違いないと、小山・結城の勢は右の袖を裂いて冑に付けることにした。
同十七日、侍所の佐々木備中守仲親と三浦因幡守貞連が三条河原で首実検をおこなったところ、千余りであった。
官軍は、山上の雲母坂(比叡山への登り口の一つ)中霊山から赤山社(赤山禅院)の前に陣を取った。
味方は、糺河原(現在の下鴨神社付近)を先陣として京白河に満ちあふれた。
29.洛中の合戦・その2
同正月二十七日辰の刻(午前8時頃)に、敵は二手に分かれて河原と鞍馬口を下って来た。味方も二手に分かれ、時を移さず駆け合わせて、入れ替わりながら数刻のあいだ戦った。味方が敗れ、河原を下って引き返したところ、敵は利を得て手厳しく攻め懸かってきた。
両大将(尊氏と直義)が御馬を進められて、思いを決した様子に見えた。そのため、勇士どもが我も我もと両大将の前に進んで防戦した。上杉武庫禅門(憲房)をはじめとして、三浦因幡守(貞連)、二階堂下総入道行全、曾我太郎左衛門入道が引き返してあちこちで討死したため、その隙に河原を下り、七条を西に折れて桂川を越えて陣を取った。このように人々が命を捨てて忠節を尽くしたのは有り難いことであった。
やがて、味方は大宮を下り、作道を山崎へ引き返した。
それより以前、「敵は千本口を下って来るに違いない」と、細川の人々を大将とする四国勢が内野の右近馬場のあたりに控えて待ち受けていた。しかし、敵はここには来ず、下京の各所に煙が見えて、鬨の声がさかんに聞こえてきたので、細川の人々は中御門を東へ向かった。
河原口で錦の旗を指した大軍に馳せ向かって追い散らし、旗指しを討ち取って旗を奪い取り、西坂本まで攻め込んで仮内裏を焼き払った。
勝ち鬨をあげて河原を下って行くと、また大軍が二条河原から四条あたりまでを防いでいた。味方かと思って見ると義貞以下の宗徒の敵が控えていたので、細川定禅兄弟が喚き叫んで馳せ向かった。敵は散々に追い散らされ、粟田口・苦集滅路の方へ落ちて行った。
途中に充満していた敵どもをことごとく追い払い、七条河原で両大将の行方を尋ねたところ、在地の者どもが、「味方の軍勢は二手に分かれ、一手は七条を西へ、もう一手は大宮を南へ、作道を目指して退かれました。」と言うので、細川の人々は急いで桂川を馳せ渡った。
亥の刻頃(午後10時頃)に御陣に参上して、京中の敵を追い払ったと申し上げたので、ただちに打ち立って七条を東へ入った。河原で夜が明けて、二十八日となった。
味方の大軍が洛中から退いたというのに細川の人々が残って敵を打ち散らしたので、御感再三であった。かたじけなくも御自筆の御書で、錦の御直垂を兵部少輔顕氏(細川顕氏)にお送りになった。「これ以上の弓矢の面目は無い」と、それを見聞した人はいよいよ忠を尽くし、命を軽くしたという。その頃、人々は、卿公定禅(細川定禅)を鬼神のように噂した。
やがて、同日の申の刻頃(午後4時頃)、山の軍勢が再び神楽岡を下ったので、味方の軍兵が馳せ向かって攻め戦った。
その戦いの際、越前国の住人の白河小次郎が、「義貞を討った」と言って、首と赤威の鎧をはぎ取って持って来た。それを聞いて人々は大慶の思いをなしたが、これは義貞ではなく、葛西の江判官三郎左衛門の首であった。義貞と顔色骨柄がよく似ており、着ていた赤威の鎧も義貞重代の鎧の薄金と同じ色だったので、大将を討ち取ったと思って味方が喜んだのも道理である。
翌日二十九日は合戦無し。一昨日山崎に引き返した味方が少々帰参した。
30.播磨落ち
同正月晦日の夜半から糺河原の合戦が始まった。今日を限りと戦ったが、味方が敗れて二階堂信濃判官行周が討ち死にした。
去年の八月の初め、武将(尊氏)は東夷を鎮めるために都を出られ、海道の所々で合戦して鎌倉に下向し、相模次郎(北条時行)、諏訪の祝以下を退治した。その冬、君と臣の間に行き違いがあって、矢作川の戦いから東の軍兵は利を失い箱根に籠もった。しかし、足柄の合戦に味方が勝ち、そのまま攻め上って洛中に乱れ入り、一両年にわたって雌雄を決する戦いを続けてきた。しかし、弓折れ矢尽き、馬は疲れ人は気力を失い、味方は戦いに敗れて、その日の夕刻、丹波の篠村に陣を召された。
明くる建武三年(1336)二月一日、また都に攻め入ろうという意見もあったが、退いて功をなすのも武略の道であるということになった。
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