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「語りえぬものを語る(野矢茂樹(著))」を読んで、意思決定の自由を考える。

■大学1年の教養課程。単位を取るために仕方なく受けていた講義もありましたが、野矢茂樹教授の「論理学」は、毎回、楽しみにしていました。
 「論理学」(野矢茂樹(著))

社会人になってからも、野矢茂樹氏の本は何冊か読みましたが、どれも面白くて、期待を裏切りません。

【読んだ本】
「はじめて考えるときのように」(PHP文庫)
「哲学の謎」(講談社現代新書)
「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫) 
「大人のための国語ゼミ」(山川出版社)

一昨年、ふと立ち寄った「神楽坂モノガタリ」というブックカフェでは、この本に出会いました。

  「語りえぬものを語る」(講談社)

「猫は後悔するか」という話題を皮切りに、哲学的思考の最前線を分かりやすく、興味深く語ってくれています。

この本で思索されているのは、「自由」と「決定論」についてです。
「人間は自由な意思によって行動しているのか?」
それとも、
「自由な意思など無く、人間の行動は決定づけられているのか?」

著者は、「自然科学は世界を語り尽くすことができない」として決定論を否定し、以下のように述べます。

 実在とは、語られた世界からたえずはみ出していく力にほかならない。その力を自分自身に、人間の行為に見てとるとき、そこにこそ、「自由の物語」を語り出す余地も生まれる。


■このような考察を聞いて思い出すのは、司法試験の受験科目でもある「刑法(刑法学)」です。

刑罰というのは国家が人に科す重大な害悪ですから、「なぜ、国家が国民に刑罰を科すことが正当化されるのか?」「刑罰の根拠は何か?」という問いに答えられるような緻密な論理が必要となります。その論理の体系が「刑法学」です。(私たちの生活やビジネスに直結するルールである「民法」とは趣が異なります。)
司法試験で「刑法」の論文答案を書くには、まず、自分のよってたつ思想や哲学を決める必要があります。
決めるべき思想の一つが「犯罪行為における自由意思を承認するか」です。つまり、先ほどの「自由」か「決定論」か。どちらを選択するかによって、論理の立て方が違ってきます。

刑罰の根拠は?
 「自由」
説を選択すると・・・「人の行動は自由な意思に基づく。自由な意思に基づいた犯罪行為だからこそ非難が可能となる。この非難が刑罰を科す根拠である」
 「決定論」説を選択すると・・「犯罪行為は(自由な意思ではなく)なんらかの外在的因子によって決定されている。刑罰を科すのは、非難を加えるためではなく、犯罪原因を取り除いて犯罪を防止するためである」 

私が司法試験の受験時代にとっていた立場は、「人間は素質・環境によって制約されながらも、最後は主体的に自己を決定する自由意思を有する」というものです。
そのような立場を選択したのは、当時、私が使っていた刑法の教科書に、そう書いてあったからです。

■受験時代は論理を一貫させるため(要するに、試験に受かるため)の選択でしたが、今は心から、自由な意思決定によって未来が変わる、変えられると信じています。

スティーブン・R・コヴィー氏の名著「7つの習慣」の1つ目も、「人間は自分の反応を選択する自由を持っている。主体性を発揮せよ」というものでした。

これから時代は大きく変わっていきますが、いつの時代も変わらない原理原則を考えることも大切です。来たるべき未来のため、日々、最善の意思決定をしていきたいと考えています。
(了)

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