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高齢者の医療に関するナラティブ

医療行為の要否とナラティブ

以下のツィートに対する私の反応です。


医療行為の要否には、医学的な要否とは別の観点がある、という指摘をもう一つすすめると、その観点はいかなるものでどこから来るのか?という問いがある。この問いに、アーサー・クラインマンは1970年代にの彼の主著「臨床人類学」で説明モデルという論考を示している。彼は主に、病気を疾病と病いに分割し、その治療が受け入れらるかどうかは、「病い」を、患者が個別に持つ心理的・社会的・文化的な文脈に沿うものとして位置づけられるかによるとしている。
クラインマンがフィールド・ワークした1960年代の台湾でも、医療と偽医療に対立があり、生物学的医学(西洋医学)の医師は、伝統的な医療行為に対してかなり排他的な態度をとることが指摘されている。おそらく現在の日本でもその傾向は顕著であり、一般の人にとっても、宗教的・伝統的な医療は、”偽医療”であるという認識が広く受け入れられるようになった思われる。

医療人類学的な見方からすれば、高齢者医療費負担の軽減政策は、かつて、若者より迷信深く、生物学的医学の見地からは詐欺に近いような治療にやすやすと引っかかる”おろかな”高齢者を、生物学的医療に”帰依”させる、有効な政策であったかもしれない。しかし、生物学的医学の重要性や客観的な効果は十分に浸透し、よほどの不信がない限りは、生物学的医学に基づく医療を享受できる現代の高齢者にたいしてのそのような価値は消失したと考えてよいだろう。


高齢者の延命治療

これは高齢者に対する”延命”と呼ばれるような医療が不要であるという議論とは全く別の議論である。

高齢者に対する延命治療は、しばしば純粋な医学的見地からすれば、不要なものに映ることがある。しかし家族や患者の視点からは必要とみなされることもあるし、家族間であっても、意見が異なることは比較的よくある。カリフォルニアの娘、東京の息子と呼ばれる現象に医療者が辟易とする様子は洋の東西を問わない。これは、患者の終末期の生き方を、個人的文脈においてどのように位置づけるか、というナラティブが、まさしく個別に異なるということに他ならない。長年世話を続け、苦労を重ねてきた同居家族にとっては、「もう十分」だし、離れて暮らしてきた家族に取っては、最後のひと時を「もう少しだけ」である。患者にとってはどうか、というのももちろん千差万別であろう。

同時に考えなければならないのは、患者のもつ心理的社会的文化的な文脈あるいはナラティブの、受け皿や提供元となる宗教的伝統的歴史的な文化も、生物学的医学によって医療からはほぼ排斥されているという現状である。終末期おいて、「もう十分生きた」という意味付けを権威をもって伝え、分脈として納得できる結末として患者や家族に説くことは、かつての宗教にはできたかもしれないが、現代では大半の患者に対する権威をほぼ喪失した。一方で、生物学的な医療者は、ある方向性に患者を誘導できる物語を持たないし、持ったり進めたりすることはしばしば、押しつけであるととらえて自制的にふるまうことも多い。
医療の選択はあくまで家族と患者本人にゆだねられる。その結果として、あまり合理的ではないと思われる、”延命”が選択されうる余地は十分ある。これを、医療側が画一的に定めることは非常にむずかしいだろう。

寝たきり高齢者の医療を考えるとき、問題になるのは、その医療費をどのように考えるかということもある。
終末期と同様に、より意味としては軽いかもしれないが、高齢者の医療も当事者の文脈の中では必要とされることがあってもよい。ただしやはり、そこにどの程度の公的な負担を行うかについては、議論が必要だ。全体として医療費がひっ迫しているというのであれば、少なくとも自己負担は年齢でのギャップをなくし、医療の利用は患者さん側にゆだねる形式としてもよいと、私も考える。

別のタイミングで、東先生はこちらのツィートも紹介している。

高齢者の医療費1割負担について

津川先生の紹介するこの論文では、自己負担が3割から1割に軽減される70歳を境に、日本人の高齢者の医療に対する支出と健康がどのように変化するかを検討している。

この研究によれば、70歳を境に医療費は増加している。同様に、健康の指標として、血圧、血糖や血中コレステロール値などの変化も解析しており、こちらは70歳を境とした改善はみられていなかった。最も重要なのは、Charlson index という指標を使い、患者さんをより健康度の高い人(Charlson index = 0)と、低い人(Charlson index = 1+)に分割して解析した結果である。

比較的健康な人の医療支出


病気の比較的重い人の医療支出

健康な人では70歳を境に医療費の有意なギャップがあり、病気の人では差がみられなかった。つまり、比較的健康な人は、自己負担が減ることで、医療の利用が増えるのに対して、病気の人を大きく変わっていない。この研究の対象者には0.2%ほどしか低所得者は含まれておらず、おもに中等度の所得のある人についての結果であり、低所得者の受領行動に対して同様な効果があるかは別途研究が必要と思われる。
自己負担を減らすことによって、健康な人に対して健康改善効果に乏しい治療が増えているというのであれば、ある程度所得のある人については自己負担の軽減政策を撤廃し、高齢者も3割負担としてもよさそうに思われる。低所得者についてはエビデンスはないため判断は難しい。受診控えをしすぎると健康を損なうかもしれない。

医療をどのような人に提供し、どのくらい公費を投入するかについては、ダイレクトに死生観につながっている。ナラティブにそった医療のでなけば現場では請けいられないし、公費を投入するためには、他者のナラティブが自分と違うことをある程度受け入れる寛容さが必要だ。寛容さは社会だけでなく医療者にも求められる。

もし生物学的医学が、似非医学を可能な限り排斥することを続ける場合には、ナラティブ形成の糧を生物学的医学からも提供したり、あるいは既存の勢力と連携する必要があるだろう。
それができなければ、生物学的医学に対して不幸にも不振を抱く患者さんたちは、疑似科学を主体とする似非医学に集束することになるのだろう。
死生におけるナラティブに生物学的医学が貢献できなかったとしたら、患者さんが医療の場を立ち去ることを受け入れなければならないし、たとえ似非医学に騙されて、傷ついて、医療に戻りたいと希望するのであれば、これも受け入れなければならないだろう。   

関連しそうなnote記事

https://note.com/shira_u/n/n13947f09b8bf

 似非医療に対してクライインマンを引用して医療人類学っぽく考えてみました。


医療の値段について


https://note.com/shira_u/n/n331558ff5f3b

 クラインマン好きだなーという感想。                                                               

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