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エクソソーム治療に思うこと

自由診療で、エクソソームを注射する治療を行っている医師に対する批判がある。エクソームは細胞が、細胞の膜として使われている膜を袋状にして、細胞内に含まれる様々な物質(タンパクや脂質、核酸)などを細胞の外に放出する構造体だ。エクソームには様々な機能があることがわかってきていて、将来的には治療に使われる可能性もある。”将来的に”である。

まだ、安全性も効果の検証も行われていない、この物質を、高額の費用を対価に、患者さんの希望によって注射することが、ビジネスになっている。このビジネスの是非はいったん置く。

なぜ患者さんはこのような、効くとも効かないともわからない治療に高額の対価を支払うのか。
ヒントは、クラインマンが、1970年代に掲げた、説明モデルにあると思う。
クラインマンによれば、へルス・ケア・システムは、いわゆる西洋医学(ないしは生物学的統計学的医学)以外に、その文化におけるさまざまな権威(社会的、政治的、神話的、宗教的、技術的な権威)を源する、病いを癒すセクターを持っている。ここでいう病いとは、疾病と異なるものとして定義されている。

疾病とは、生物学的プロセスと心理学的プロセスの両方あるいは一方の機能不全をさす。それに対し、病いとは、知覚された疾病の心理社会的な体験のされ方や意味付けをさす。

医療人類学 p.80

ヘルス・ケアシステムの目標は、疾病の治療と病の癒しの二つがある。前者は生物学的・心理的プロセスの疾患を効果的にコントロールすることであり、後者は、病気が作り出す生活上のさまざまな問題に私的、社会的意味を与えることだ。そして、治療を受けるにあたっては、患者さんがそれぞれあらかじめ文化的背景の中で個別に育んできた、病いかかわる様々な概念・疾病が大雑把に結びついて生じる説明モデルが重要な役割を果たしている、という。
一方で医師は生物学的な説明モデルを持っているが、医者が患者の問題を理解したうえで治療することができないなら、患者は別種の治療を求めたり、医者の治療を拒むことなる。
クラインマンは、いわゆる霊媒師・シャーマンであるタンキー(童乩)を台湾における伝統的な治療者としてフィールドワークの中心に据え、ヘルスケアシステムを生物学的な医療の枠の外からとらえなおしている。タンキーは、その説明が患者の説明モデルと合致すれば、様々な癒しを提供し、時に、患者が西洋医学に戻ること助けることがある。たとえば、急性の伝染病と思しき子供と祖母が、タンキーの廟を訪れた際には「たぶん“感染“だろう。悪運が西洋医の治療を難しくしている」などと説明し、悪運を祓う儀礼をおこなったうえで、タンキーは祖母に小児科医のところに戻るように勧めた、という事例を記載している(p.213)。

タンキーの治療によって病いは、いかに癒されているのか。クラインマンは、こう記載している。

文化的な癒しは、人々に受け入れられるような文化的な適合が成立しさえすれば、病者の不調が好転するかどうかにかかわりなく、病者本人や家族その他関係者に必然的におこるものである。

病者たちは、その臨床リアリティのもとで、病い体験に対する個人的・社会的な意味の付与と、病い体験を構成している個人的・社会的問題の臨床的解決とをとおして、治療されるのである。

p.406

本当は歯がゆいことなのであるが、件の自由診療でエクソーム治療を行っている医師は、エビデンスがないことを指摘し、「金儲け」であるとか「詐欺」であるとか、いささか乱暴な批判する医師らに対して、エモーショナル・エクスペリエンス・ベースド・メディシンを行っていると宣言していた。このような用語が実際にあるのか、彼の造語かはわからないが、クラインマンの医療人類学における病いの癒しに相当してしまうのである。
つまり患者さんが高額な費用を支払うのは、生物学的な医学が受け止め切れていない、体験的な病に対する癒しを、エクソソームに求めているのかもしれない。タンキーに代わって自由診療の医師が、精霊の神話に代わって、最先端の生物学的技術という神話を使う癒し。

クラインマンがフィールドワークした当時の台湾においても、「癌や重篤な心臓病、重い脳卒中や腎機能不全などの様々な末期的症状を治す秘密の治療法があると称して人々につけこむ中国式治療者」が現れ、ほかの中国式、西洋式医者たちから"にせ医者"と呼ばれている事態が生じていた。そして、「西洋医が、もはや技術的な治療の効果が見られない病気に直面した場合、治療者の役割を放棄してしまうのに対して、この治療者たちは末期の病人や臨終の床にある病人に希望と励ましを与えるのである」というのである。この現象と、現在の日本のSNS上で見られた現象が、ほとんど重なっている。ただ一つ、批判を受けているのも、正式な医師である、という点を除いて。

なぜ、このような事態が現代日本で起こっているのか。予測としては、生物学的医療が、元来病の癒しを担ってきた伝統的な(宗教的ないし土着的)治療者を、偽医学や詐欺の名のもとに駆逐してしまったからと考えている。
体験としての病いの受け手が駆逐されてしまった結果、医師の一部がその役割を担うという、逆流が起きている。この意味では、私自身は彼らを一方的に批判することができない。しかしそのような治療に自ら与することはないだろう。

治療法がなくて緩慢に進行してゆく病いがあって、それに対して研究中の、効果があるか結論の出ていない治療の候補があるとき、患者さんがその候補に縋りたくなることは理解できる。 患者さんがその治療候補を希望したとき、主治医はどんな反応をするか。1/5
「効果があるか分からない」「保険の適応はない」「エビデンスがない」「詐欺まがいで治療ですらない」「騙されるのは愚かだ」。 もし患者さんが、効果の不確実性や有害事象のリスクを充分に理解していたらどうか。患者さん側からすれば、理解のないのは医者の方で、医療不信が起こるだろう。2/5
クラインマンが言うように、体験としての「病い」は主観的なもので、前提となる説明モデルを患者さん自身が持っている。説明モデルに沿っている方がおそらく満足度は高い。世に溢れる様々な治療(候補)を実施している医師が、いつも自信にみなぎっているのは、顧客の支持と感謝があるからだろう。3/5
しかし私は「治療(候補)」に与しない。有効だと実施する医師が信じるなら、医師という職能集団で認められた手続きに従ってコンセンサスを得るべきと思うから。 化学療法なら、動物で安全性や効果を検討し、倫理的な妥当性を確認し、被検者の充分な同意を得て、少人数から徐々に規模を拡大する、4/5
気の遠くなる研究手続きの最終地点に臨床がある。 膨大な手続きに身を投じている医師・研究者からすれば、「金儲け」の批判は当然だし、もし効果を信じていないのに患者に実施しているのなら、詐欺と言われても仕方がないと私は思う。医療は需要を満たすだけのビジネスとは違う。5/5

twitter @YukiShiratori1

本来は、保険診療の医療の中で、患者さんの病としての体験を受け止められるのが良いと思う。エクソソーム医師に対する私の思いは複雑である。正直言えば、金銭的成功に対するルサンチマンもあるかもしれない。

一方で、彼らを乱暴に批判しようとする医師にも言いたいことがある。

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