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医療人類学から考える反ワクチンの言説

最近復刊された、アーサー・C・クラインマンの臨床人類学を読んだ。

クラインマンによれば、ヘルス・ケア・システムの対象となる”病気”には、疾病と病いがある。疾病はある程度客観的背景をもって認知される機能不全であり、病いは主権的な体験のされ方である。

医療人類学の基本原則は、病気を疾病diseaseと病いillnessの両面から見る二分法である。疾病とは、生物学的プロセスと心理学的プロセスの両方あるいは一方の機能不全をさす。それに対し、病いとは、知覚された疾病の心理社会的な体験のされ方や意味付けをさす。

臨床人類学p.80

この考えに立つといくつかの診断について、病いではあるが疾病ではないという状況が生まれてくることがある。

同性愛、アルコール依存、薬物依存についても同じように考えることができる。精神医学の説明体系から解釈するなら、これらはいずれも病である。しかし、それが直ちに疾病であるかどうかの判断は、精神分析学的な立場、生物学的立場、行動的立場、社会的立場のいずれの立場に立って説明するかで違ってくる。

医療人類学p.83

そしてこのような、”病気”に対して、治療も二つの臨床課題を提示される。それは、”疾病の治療”と”病の癒し”という活動であり、それはヘルス・ケア・システムの主要目標をなしている。

クラインマンの臨床人類学では、ヘルスケアシステムの構造に、専門職・民間・民俗の各セクターからなる3つの部門を想定している(p.110)。
臨床的に3セクターの果たす役割は異なっており、例えば、”民間セクターと民俗セクターの病気の説明では、病い体験や治療が持つ個人的・社会的意味がほとんどいつも伝えられている”のに対して、専門職セクターを構成する生物医学の治療者の説明は、”個人とは無関係の客観的、科学的な慣用語で申し渡されるのが普通であり、専門的な情報は与えるが、その説明には個人的意味も社会的意味も欠けている”p.112という。
たとえ、民間セクターによる説明モデルが、生物学的医学の医者からみればナンセンスな信念であったとしても、”医者が患者の問題を理解したうえで治療することができないなら、患者は別種の治療を求めたり、医者の治療を拒むことになろう”p.131と考えられた。

当時の台湾の例における専門職セクターには、中国医学の医師も含まれていたが、西洋医学が中心的であった。両者はお互いの理論の上では一致しないことも多いのだが、たいていの場合、”伝統的な医者の方が西洋よりも相手に寛容にふるまうのは珍しいことではない”p.103状況であった。

概観すると、疾病と病いの治療を考えたとき、権勢をふるっていた生物学的医学を中心とした専門職セクターは主に疾病を治療し、民俗セクターと民間セクターでは、病いの体験やその治療に対して個人的・社会的意味を伝えるという役割を通じて、ヘルスケア・システム全体として治療を成立させていたと考えられる。セクター間の関係として、生物学的医学からは、民俗・民間セクターによる治療は、しばしばオカルトじみて非科学的とみなされ、排除されやすいが、一方で、民俗・民間セクターから生物学的医学については寛容にふるまわられていたと思われる。

さて、このような医療人類学的な視点から見た場合、現代日本のヘルス・ケア・システムはどのような治療者セクターによって構成されているだろうか。私が生物学的医学を基盤とするいわゆる”西洋医学”を中心に学んだ医師であるために、そのバイアスも当然影響しているが、日本においては、ほぼ生物学的医学がほかのセクターにおける新年にも強く影響を及ぼし、民俗・民間的セクターによる治療は9割がた排されているいるように感じる。

西洋の生物学的医学の知識が中心となる専門職セクターの力が強すぎると、生物学的医学では補いきれない、病いや治療の個人的・社会的意味を担う伝統的な民俗セクターや民間セクターが担っていた、病いや治療を解釈して個人的・社会的意味を付与するという役割が、消失してしまう。
これらの受け皿として、伝統的な民俗セクターとは異なる装いとして、表層的には科学的な態度を装った、”反ワクチン”の非科学的な思想が、ある一定の患者層を吸収しつつあるのではないか。

反ワクチンに傾倒する人々の間には、前提として、なんらかの既存の生物学的医学に対する懐疑や不信がある。それは、反ワクチンの非科学的思想を、単純にデマとして糾弾することでは払底されないばかりか、ますます不信を深めてしまう。

病いを解釈して個人的・社会的に意味や価値を見出すことは、生物学的医学セクターに立つ我々が、逃れえぬバイアスの影響下に考えるよりも、患者にとっては大きな意味を持つのだろう。

患者にとって生きることとは、生物学的に繰り返され、集団として観測される現象ではなく、一度きりで失われれば取り戻すことのできないナラティブである。
病いや治療をどう解釈するか、患者のナラティブの中にどのように病や治療を埋め込んでいくかということが、1回生の人生を歩むものとしては重要なのだ。

ヘルスケアシステムにおいて、民俗セクターの代替となりうる医師の言動

民俗セクター側に移行したことで、医療側から排斥をうけた可能性もある。


西洋医学に民俗セクターが果たしたような、心理社会的、文化的手法を導入しようとする場合、エビデンスを提示しにくいこのような手法は、しばしばニセ科学として排斥を受けてしまう。
しかし、専門家からも胡散臭い視線を受けつつも、民俗セクター的な治療を行い、かつ過激な排斥を受けていない大御所もいる。

大御所神田橋先生の治療の広めかたは決して西洋医学と対立せず、西洋医学がカバーしきれていない分野を、うまく補完する形で治療の対象としているところがとても重要と思う。

https://twitter.com/YukiShiratori1/status/1538512619820023808


失われつつある民俗セクターの代替については、私はオープンダイアローグも普及の可能性が高いと思う。この場合、普及の仕方として、既存の医療を糾弾してとってかわろうとするような代替ではなく、既存の医療の手が届いていない分野に対する補完こそが真のオルタナティブメディスンといえるだろう。オープンダイアローグでは、専門家が意見をいう場合、「お盆に載せる」という言い方をする。患者はお盆に載せられた意見のなかから、自分に合うものを選ぶ自由を尊重されている。そこには当然、生物学的医学が支持する薬物療法が載せられることもあるし、入院治療という手段が載せられることもあり、これらを排斥することはない。また同時に、よりスピリチュアルな(たとえば宗教的な)支援がお盆に乗ることもある。


生物学的医学は、しばしば批判も受けるが、その生命に対する有用性は現在では疑いようがない。ただし万能でもないから、うまくいかない場合に批判や不信の対象となることはあるし、それら批判をうけてさらに進歩するという可能性もある。ニセ科学が批判の受け皿として、患者に対して有用な働きを見せる可能性は、民俗セクターによる代替医療の観点からは、もちろんあるが、対立をあおり、有用な生物学的医療へのアクセスを妨げる”ニセ科学”は、駆逐される必要がある。

そのために生物学的医学に基盤を置く医療者ができることは、不信をもって離れニセ科学にたどり着いた患者を批判するだけでなく、公的なヘルスケアシステムの中に取り込んで患者のナラティブに生かせる手段を開発する必要があるだろう。

医学は生物学そのものではない。医学はもっとも古い学問であり、その中心に、古代では卜占・占術や、中世では三大宗教に論拠を置くこともあったし、現在でも地域によっては民俗的な治療が主流となっているところもあるかもしれない。その意味で、医学は自然科学的なサイエンスというだけではなく、固有の、個性的な、ナラティブを持つ”人”をいやす、アートでもある。アカデミアとしての医学は、サイエンスとアートの結節点にある。

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