見出し画像

海鴉、幽霊船、大烏賊 〜叙事詩『月の鯨』第一の手紙(8)〜

船は超自然的現象の中を進んでいく
現実と幻想のあわいをただよう舟子たち
船長は姿をくらましていた
大津波は鎮まりつつあるようにも見えたが
待ち構えていたのはさらに荒涼とした世界

ある朝
甲板に上がっていくと
海鴉が雲霞のごとく飛び交っていた
真っ黒な鴉どもが
帆の上にぎっしりひしめいている
船はいつの間にか海鴉の棲み家
我が物顔で船を荒らしていた
鴉たちにとって
この船はもはや無人の漂流船
船員たちは存在感のない亡霊だった

そうこうするうちに前方から
白い船が近づいてくるのが見えた
捕鯨船だった
この広大な海において
同じ種類の船に出会うことは滅多にない
こういうときは船員が互いの船を訪問し合い
酒を酌み交わし
情報交換をするのが習わしである
さっそく船長代理の「月影」は
ボートを降ろす準備に取りかかった
ところが先方の船は
一向に速度をゆるめようとしない
その船は長期にわたって波に洗われ
過酷な気候に晒されてきたせいなのか
漂白された骸骨のようにテカテカしている
二つの船は側面ギリギリをすれ違う
乗員はいないようだったが
その船にはドクロが散らばっていた
骸骨のような船に散らばる無数のドクロ
帆は薄汚れ 欄干には海藻が垂れ下がっている
その幽鬼の気配は
子どものころの悪夢に見た幽霊船そのものだ
ところが
海藻のように見えていたものは
その船で生き残った者の
モジャモジャでびしょ濡れの髪だった
(おい、おまえらどうしたんだ)
「月影」がモジャモジャの髪に向かって声をかけた
(まさか、月の鯨にやられたんじゃあるまいな)
海藻の塊のひとつが物憂げに顔を上げた
皺だらけのヤツれ切った蒼白の顔
しかし眼だけは爛々と輝いている
見覚えのある顔だった
それはまぎれもない
あの海坊主
船長に滅ぼされたはずの海坊主
凄惨な断末魔の姿が記憶によみがえる
オレたちは言葉を失った
海坊主はシワがれた声でいった

汝ら滅びの定めを受けし者
汝らが生み出した涯てしなき罪
悔い改めよ!
悔い改めよ!

海鴉どもは一斉に羽をバタバタさせ
オレたちに敵意をむき出しにしている
薄暗い空が揺れる

我は鯨の腹より生まれ出し者なり
月の鯨の使者なり
汝らを待ち構えている運命を怖れよ!
運命を怖れよ!

悪鬼のような迫力でそう凄むと
海坊主を乗せた船は速度を上げ
瞬く間に遠ざかっていった
オレたちは呆然とするばかり

それが終わりではなかった
次なる怪異が我々の前に待ち構えていた
船のまわりにとぐろを巻いていた
幻覚に似た咆哮がようやく収まり
超自然的な静寂が
紺碧の海に立ち込めていたとき
マストにいた船員の目に映ったのは
ある不思議な妖鬼の影
沖合
大きな白い塊りがぬらりと立ち上がる
ナイアガラの滝のように水がごうごう流れ
ついには我々の眼前
船首の向こう側に燦然と立ち上がった
真っ白な巨獣
化け物は空を覆い尽くし
大雪崩のようにギラギラと輝いた
と思うとゆっくりと沈下
水面下に姿を消し
再び浮き上がってきて目も眩む光芒を放つ
(月の鯨だ! 月の鯨だ!)
舟子どもが騒ぎ始めた
(船長を呼べ! 船長を呼べ!)
船長は姿を現さなかった
舟子たちは
上司の指示も仰がずに四艘のボートを船から下ろすと
白い怪物に向けて突撃を開始
(勝手なことをするな!)
「月影」は声を涸らして叫んだが
興奮した舟子たちの耳には入らない
全身すべすべとした乳白色の肢体
巨大などろどろの塊り
神秘の海が人類の眼に顕現した異形の姿
水面に浮き上がったそいつは
放射状に繰り出した長い腕を振り回し
ウワバミのようにくねくねさせた
その腕は妖怪七変化のように虚空を泳ぎ
何人かの舟子を海の中に突き飛ばした
本能なのか意思なのか
手のつけられぬほど暴れ回ったそいつは
やがて乳を吸うような音を立てたかと思うと
水面下に没し
そのまま姿を消した

太陽が沈もうとしている
いつの間にか
船長が船首に姿を現していた
(あれは大烏賊よ!)
船長は義足で甲板を叩きながらいった
(あれを眼にした者で無事に陸に帰った人間はいないそうだ)
船長は物騒なことをいった後
歪んだような不快な笑いを残して部屋に戻って行った
オレの中に船長への憎悪が湧き上がってくる
荒くなる呼吸を落ち着ける

この騒ぎで数人の舟子が行方不明になった
だがそれが明らかになったのは
この事件からしばらく経って後のことだ

我々はこのようにして
痛々しい犠牲を払いながらも
魔の喜望峰をようやく抜けることができたのだった
そして
喜望峰の先にある海は鯨の王国だった

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?