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銀河鉄道の絵をめぐって 【エッセイ】

最近、奇跡のようなことが起こりました。文章だけではなく、絵や音楽にも才能を発揮し、noteで活躍中のアーティストである大橋ちよさんが、私のつくった短歌を絵にしてくれたのです。文芸を創作したり、発表したりすることを個人的なことと考えていた私にとっては、このようなコラボレーションは予想外の出来事でした。

そもそもは、私がほんの出来心から「みんなの俳句大会」に俳句や短歌を投稿するようになったことから始まっています。

ただ、この間の事情に触れることは別の機会に譲ることとして、ここでは大橋ちよさんの絵と記事から思い巡らしたことを書いてみたいと思います。

次をご覧ください。大橋さんの記事はこちらです。今回描いていただいた絵(それと私の短歌)が紹介されています。

絵を描いていただいた短歌ができたきっかけについては、よく覚えていません^^;。ただ、「ジョバンニ」と「宇宙の底」がこの短歌の鍵であったような気がします。上方から来る流星が下方にある宇宙の底に吸われていく様子を見るには、仮想の銀河鉄道の座席が絶好のビューポイントとなります。それを見ている主体は『銀河鉄道の夜』のジョバンニ以外には考えられません。底知れない深淵に向かうジョバンニのほんの数秒間の眼差しを大橋ちよさんの絵が捉えていて見事です。

ところで、ここで一石を投じてみたいと思います。大橋さんの絵にはジョバンニの顔がはっきり描かれています。それが何か?と言われそうですが、私がこだわっておきたい点です。

すでに前世紀のことですが、『銀河鉄道の夜』がアニメ映画になりました。このアニメは原作にほぼ忠実に作られていたのですが、原作と違っていた点は、登場人物が猫の姿で描かれていたことでした。ジョバンニもカンパネルラも猫の姿でした。

この点について、映画の原案を描いたますむらひろしさんが次のように述べていたように記憶しています。つまり、『銀河鉄道の夜』を絵にするに当たっての難問が、ジョバンニやカンパネルラをどのような顔に描くか、ということだったそうです。登場人物に特定の人間の顔を持たせることが作品と受け手に与える影響を気にかけていたようです。

『銀河鉄道の夜』の登場人物の名前はみんな横文字です。ジョバンニやカンパネルラはどこの国の住民なのでしょうか。ジョバンニはイタリア名なので舞台はイタリアなのか、あるいは作中に南十字星が出てくるので南米の方ではないか。一方で「天気輪の柱」は賢治の地元に実在するようなので、やはり岩手県がモデルなのだろうか、とか。いろいろ考えたものです。

おそらく、作中人物に特定の民族や国籍を想定することはできないし、舞台のモデルを特定の地域に当てはめることはできないのでしょう。宮沢賢治はエスペラント語を学んでいたようですが、まるでエスペラント語が使われている世界を舞台としているような無国籍性が、あの独特の透明感を持った世界を成り立たせているように思います。つまり、ますむらさんが登場人物を猫の姿に描いて無国籍的にしたことは、原作に忠実であるためにも必須であったといえます。

一方で、大橋さんの絵では、ジョバンニが顔を持っています。すると顔を持ったジョバンニをどう受け入れるかが作品享受の課題になってくるのです。何を大げさな、といわれそうですが、顔を持った者は無国籍で透明な存在でいることはできないので、私の中にはいろいろな思いが湧き起こります。もっぱら私の個人的なこだわりに発することかも知れないのですが、こういう意味でも大橋さんの絵は自分にとっての事件だったのです。

話は変わりますが、大橋さんはこの記事で宮沢賢治への思いを綴られています。たいへん共感する部分が多いのですが、宮沢賢治は私にとっても特別な存在なので、私の賢治観を最後に述べておきます。

宮沢賢治は四次元空間を言語に転換することができた他に類のない作家だと考えています。賢治の作品と言語は三次元世界のものさしで測ることができないので、長い間無理解にさらされてきました。賢治の時代から100年以上が経ったいま、宮沢賢治への理解は進み、評価もされていると思いますが、未だ解明されてはいないように思います。世界に幻想的な世界を描いた作品は多々存在しますが、宮沢賢治だけは次元が異なるのです。異次元の言語で書かれているので、読んでいるうちに感覚が変容していくような気持ちになります。まさにサイケデリックです。

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