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2019GW-常磐線で千葉に帰る旅(前)

こんにちは、動画も記事もスランプ気味のしおさいです。

旅行に行けないGW、この記事を見て少しでも旅行した気分になっていただけたら幸いです。こちらの記事の続き、昨年のGWの復路です。東日本大震災の被災地・原発事故の帰還困難区域の画像がありますので、ご承知のほど、ご覧いただきたいと思います。

カントリー・ロード

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2019年5月5日。令和になって5日目である。

当分、いや今後ないであろう10連休の終わりも近づき、8日間過ごした福島とも今日でしばらくお別れだ。
東北の大動脈の一部をなす常磐線だが、ローカル色の強いいわき以北だと鹿島のような味のある木造駅舎も多く残る。桃内や隣の日立木などは平成になってから取り壊されたが、鹿島は無人駅になってからもいまだ現役だ。

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9時30分発の原ノ町行きに乗車。東北で6両編成の普通列車は長編成の部類に入る。

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鹿島を出てすぐに真野川を渡り、旧鹿島町と旧原町市との境へ高度を上げていく。このあたりは町を外れると小高い山を越えて次の町に出る、という車窓が繰り返される。
トンネルを2本くぐると景色がひらけ、新田川を渡ると原町の市街地に入って、原ノ町に着いたのは9時36分。

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宿場町として浜通り北部の中でも古くから栄えた町ということもあり、利用者は常磐線のいわき以北では上位に食い込む。ただ、過疎化や震災の影響で年々減少傾向にあり、城下町・相馬のあとを追っているかたちだ。
上の写真で時刻表が掲げられている場所の左方には、かつて立ち食いそばのスタンドがあり、駅弁も販売していたが、震災後に駅構内からは撤退し、現在は駅前のホテルで営業を続けている。

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地方の主要駅らしい、しっかりとした駅舎だ。「野馬追の里」と銘打っているだけあり、それに関する装飾も施されていた。相馬野馬追は、毎年7月最後の週末に開かれるが、今年はどうなるだろうか。

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ここで、9時52分発の浪江行きに乗り換えて、南を目指す。
写真の719系は、今年3月の全線再開に合わせて常磐線から撤退しており、もうこの区間で見ることはできない。記憶と記録の中のみに残るものとなってしまった。

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集団見合い式という特殊な配置のシートを確保し、定刻に発車。
一世代前の、少し古めかしい駆動音が、旅情を掻き立てる。かつて走っていた、415系や455系などにも、通じるものがある。

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重厚なつくりの農家さんが目立つ。地主などの家なのかもしれない。こんなのどかな車窓を見ていると、自然と心が和むのは、僕だけだろうか。

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磐城太田からまた小高い山を越え、小高に着く。旧原町市・旧鹿島町とともに現在の南相馬市を構成する旧小高町の代表駅で、かつては特急停車駅だった。古くからの駅舎がここでも現役で、町おこしプロジェクトのモデルに選ばれている。(リンク貼っておきます)

小高からは、木々の間を縫って進んでいく。人家もまばらで、ローカル感は一層強くなる。
原子力発電所という、地域経済を支える基幹産業があった双葉郡だが、過疎化により震災前から人口は減少しており、常磐線のなかでもいわきから原ノ町にかけては利用者が少なかった。複線化も進まなかったため、いまだにこうしてローカル線の雰囲気を残しているのだ。

トンネルを出て桃内に停まり、しばらく山とも丘ともつかぬところを走り、ひらけてくるとそこが浪江だ。

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なみえ焼そばと大堀相馬焼で知られるこの町も、原発事故によって一時全域に避難指示が出されていた。
請戸川を渡り、浪江に着いたのは10時13分。

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このときはまだ全線復旧前で、仙台側のレールの南端はここ浪江だった。南へ20㎞、富岡へは代行バスの旅だ。

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みどりの窓口こそなくなったものの、当時は駅員さんがおり、列車の発着を見守っていた。ちなみに2018年4月に訪問した際は入鋏印を捺印させて下さった。

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戦後、国鉄時代に建てられた、鉄筋コンクリート造りの駅舎だ。木造駅舎とはまた違ったよさがある。

時では癒せない傷

10時30分発の富岡行き代行バスで、帰還困難区域を抜ける。案の定、中学生は僕一人のようだが、乗客は意外にも鉄道ファンだけではないらしい。

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「高原の駅よさようなら」の歌碑を視界にかすめ、人通りのない駅前をゆっくりと走っていく。かつて2万人以上が暮らした浪江町も、人口の流出で1100人ほどまで減少したという。
右折して国道6号線に入り、高瀬川を渡って少し進むと帰還困難区域に入る。建物はほとんど無人化しており、震災から8年間、手入れもされず荒廃したものも多い。

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上の写真は、2018年4月3日のもの。人の消えた街に、桜が咲いている。
あの日、突然奪われた平穏な日々。人々は、どんな思いで故郷を離れていったのだろうか。それを語る資格は、僕にはない。でも、福島を愛する一人として、福島を見てきた一人として、こうして情報を発信する一人として、現状から目をそらすことはできないのだ。たとえそれがどんな状況であろうとも、「いま」を発信していかなければならないと思う。

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これは、今回撮った写真。先ほどの写真からは、1年1か月の月日が流れた。
何一つ進展していない、そんなことはないだろう。だが、気持ちは、2011年のあの日から、変わらないまま。8年という年月では、心の傷はそう簡単に癒えないのだ。それでも、前を向いて、未来に進む人がいる。

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2019年8月18日に撮影。あのクレーンが、福島第一原子力発電所のようだ。
人々の暮らしを豊かにしてきたはずのものは、あの日、一瞬にして故郷を壊してしまった。
福島が負った傷は、あまりにも大きい。大きすぎる。それでも人々は、大好きなこの町の、福島の復興を願って、また歩き出した。スタートも、ゴールも見えない中で。

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画面の前であーだこーだ言っていても始まらない。
実際に行って、感じること、そこから学んでいくことが、一番大事なのではないかと思う。口先だけで語るのではなく、身をもって体感したうえで、ものを語れるようにありたい。
来年で10年だ。あの震災で傷を負ったのは、福島だけではない。もし、宮城や岩手や青森に行く機会を与えてくれたなら、僕がまだ知らない東北を、見て、感じたい。そこから学ぶことを、無駄にしないでいたい。

帰還困難区域を抜け、さくらモールと双葉警察署のある交差点を左折すると、富岡駅はもうすぐだ。

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富岡には10時57分に到着。ここで三度乗り換えだ。

次回に続く。

【動画】
前編 https://www.nicovideo.jp/watch/sm37161282
後編 https://www.nicovideo.jp/watch/sm37349428

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