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鉄道とBRTでつなぐ、春の三陸海岸 ②2日目(鹿島→石巻)

前回↓


【2】やむなく徐行 鹿島→仙台

鹿島駅の駅舎。ガタがきているらしく先日の地震で損傷したようだ

 2022年3月27日、日曜日。
 鹿島の祖父母宅で1日のんびりし、移動を再開する。今日から3日かけて青森県の八戸を目指し、4日目に再び鹿島まで戻ってくる予定だ。
 8時37分、平常より20分も早く仙台行きの列車がやってきたのでこれに乗る。常磐線は16日にあった地震の影響がまだ続いており、徐行運転を行う区間が多数あるため臨時ダイヤが組まれている。
 鹿島駅を出てしばらくは直線なのでスピードは出るが、少し進んで減速した。さっそく徐行区間に入ってしまったらしい。12月に乗った木次線や芸備線ほどではないものの常磐線らしからぬゆっくりとした速度で走り、次の日立木駅に止まる。ここは先日の地震でホームの一部が崩れてしまい、補修に時間がかかった。本線側は直されてきれいになっているが、使われていない待避線側はボロボロのまま放置されていた。揺れの大きさがうかがえる。
 城下町の相馬駅でどかっと人が乗り、駒ヶ嶺駅で列車行き違いのため7分ほど待たされ(対向列車は遅れていた)、新地駅でやっと徐行区間を抜けた。新地駅の手前から浜吉田駅までは震災後ルートが変わり、高架上を走る部分が多い。
 仙台も近くなってきた亘理駅、逢隈駅でさらに乗客は増え、阿武隈川の長い鉄橋を渡って右手に工場が見えてくると岩沼駅に着く。ここでE657系電車による臨時快速列車とすれ違った。原ノ町駅からは特急「ひたち14号」に化ける列車だ。
 東北本線内は快走し、10時17分に仙台駅に到着。隣の線路には郡山駅から仙台駅までを走る快速列車用のE653系電車が止まっていた。仙台駅には普段来ない車両なのでレアな光景だが、理由が理由なだけに喜ぶことはできない。

【3】海に浮かぶは ああ松島や 仙台→野蒜

仙石線の起点、あおば通駅。車両は特殊塗装の「マンガッタンライナー」

 仙台駅から地下道を歩いて500m、そこに仙石線の起点駅、あおば通駅がある。2000年の地下化に際して新しく作られた駅で、見た目は完全に地下鉄のそれである。おまけに使われている車両は東京からやってきた205系電車で、なんとなく僕の地元を走る京葉線が思い出される光景だ。
 仙台の発車メロディーといえば、な青葉城恋唄のアレンジが流れて、10時49分に石巻行きの普通電車は動き出した。ポイントを渡ったかと思えばすぐ仙台駅の地下ホームに滑り込み、ここで一気に乗客が増えた。
 宮城野原駅で楽天ファンらしき人たちが降りていき、次の陸前原ノ町駅から地上に出る。しばらくは仙台郊外の住宅街の中を走っていく。これまた僕の地元である京成線になんとなく通ずるような気がした。
 仙台から20分弱で多賀城駅に着く。奈良時代から平安時代にかけて陸奥国府がおかれた多賀城市の代表駅で、市内には国府に関連する史跡がたくさん残されている。駅自体は2012年に高架化され、かなり近代的だ。
 住宅街がさらに続き、西塩釜駅の手前からは車窓の主役が港に切り替わる。船がいくつも係留されていて、時折巨大なクレーンが現れる。個人的には仙石線の最初のハイライトシーンだと思うほどのいい景色だ。
 東塩釜駅から単線になりローカル線みが増してきたが、まだ乗車率は高い。この先には日本三景・松島が待っている。かの松尾芭蕉が「奥の細道」の途上で訪れた際、その美しさに句を詠めなかったといわれているところだ。松島ももちろん海の上で展開される景色だが、震災では津波の勢いを島々がかき消してくれたおかげで沿岸の被害は少なく済んだという。
 トンネルを抜けると、右手に湾に浮かぶ小島が見えた。仙石線の車窓から見える松島の風景はほんのわずかだが、とてもきれいだ。少し曇り空なのが悔やまれる。

仙石線から松島の一部をのぞむ。

 観光の玄関口である松島海岸駅で乗客の数は一気に減り、車内はガラガラになった。東北本線と並走して連絡線を通り過ぎ、車窓がひらけてくると高城町駅に到着する。高城町駅から陸前小野駅までが仙石線で最後に再開した区間で、一部は津波の被害にあっており、ルートが変更されている。
 養殖用のいかだが浮かんでいるのをながめて、震災前はホームから海が見えていた陸前大塚駅からルート変更区間となる。旧線は海岸線に比較的忠実に沿っていたが、新線は高架橋や掘割で内陸を貫くようになっている。
 いつぞやのMMD杯で話題になった東名駅の次が野蒜駅、ここで途中下車。この2駅はそれぞれ津波で浸水し、ルート変更に伴って移設されている。

 野蒜駅が開業したのは1928年のことで、奥松島と呼ばれるここ一帯の観光開発を目的として設置されたものだった。実際に旧駅から700mほど歩けば海水浴場があり、さらにそこから行くと宮戸島までつながっている。駅周辺には集落が形成されていたが、震災では3m以上の大津波がこの地に押し寄せ、甚大な被害を受けた。
 現在の野蒜駅は、高台移転した住宅団地と付随して設置されている。旧駅とはそこまで離れておらず、700mほど歩けばたどり着けるようになっていて、現在の駅からは連絡通路が伸びている。
 まだ新しめの通路を抜け駐車場に出て、階段を降り海岸の方へまっすぐ道を進むと、震災復興祈念公園に到着。広場のモニュメントには「鎮魂・復興・感謝 東松島一心」の言葉が刻まれ、横には東松島市で犠牲になった方々の名前が並んでいる。当時43000人ほどが暮らしていた東松島市では1000人以上の人命が失われ、建物やインフラが深刻な被害を受けた。

3.7mの津波に襲われた旧・野蒜駅。現在は震災復興伝承館となっている
ホームを裏手から

 モニュメントに手を合わせ、駅の方へまわってみる。広場のある裏手から見ても乗り場の惨状は相当のもので、ホームの表面はボロボロ、照明の柱と思われるものはへし折れてそのまま、2番線のレールは外側に曲がっている。これでも自衛隊などの手によってがれきなどがきちんと取り除かれて整備された状態なので、被災直後はもっとひどかったはずだ。
 一見すると無傷の旧駅舎、現在は伝承館となっている建物に入って真正面には駅のホームに続くドアがあり、左手には資料室が、右手には航空自衛隊松島基地に関する資料が別で配置されている。少し見上げてみると壁に赤い線が引いてあって、床からの高さは約3.7m。この駅を襲った津波の高さだ。僕の背丈など比べものにもならないほど高い。
 改札口近くにあるのが野蒜地区の再建計画についての地図や模型といった資料。街が場所を移して再び形作られていく様子を追うことができる。その反対側には「青い鯉のぼりプロジェクト」のパネルが。弟を亡くしたある男性が、他の家族を探す中でがれきから見つけた青い鯉のぼりを「家族のシンボル」としてあげ始めた、そんなことが書かれている。南相馬にも亡くした家族に見えるようにと菜の花で迷路をつくった男性がいたのを思い出した。同じように「家族」を忘れまいと動いている人々が、たくさんいるのだ。
 そして仙石線の写真。地震が起きたちょうどそのとき、仙石線内では野蒜駅を出て石巻駅を目指していた下り電車と、野蒜駅に到着する直前だったあおば通行きの上り電車などが走っていた。石巻行きの方はギリギリ高台で停車したため津波から逃れたものの、あおば通行きには津波が直撃。車体は大きく折れ曲がってレールから外れていたという。乗客たちは近くの小学校に避難することができた、が……。

野蒜駅で使われていた券売機。タッチパネル部分が完全に壊れている
市内各地域の概況。どれだけ被害が大きかったかが伝わってくる

 階段を上った先の2階は震災時の資料が集められていて、まず目に入ってくるのがボロボロに破壊された券売機やICカードリーダー。当時の野蒜駅で使われていたものである。これだけでも津波の威力をうかがい知れる。
 東松島市の概要や震災前の風景の写真があるところを通り過ぎると、次に見るのは時計。かつて野蒜小学校の運動場にあったものだそうだが、時計の針は2時47分47秒を指したまま止まっている。津波が到達するまではもう少し時間がかかったはずだから、揺れで壊れてしまったのだろうか。この小学校は海岸からそれなりに離れていて避難所に指定されており、地震直後は先に述べた仙石線の乗客たちを含め避難者であふれかえっていたが、3m近い津波が押し寄せ、13人が犠牲になった。
 そんな、悲劇と一言で言い表すべきかわからないほどの出来事があった旧野蒜小学校は、防災体験施設「KIBOTCHA」にリノベーションされ、今も残っている。
 ちょっとした空間には地区ごとに写真パネルが掲げられ、正面のスクリーンには映像が投影されている。妻を亡くした男性が出ているドキュメンタリーだった。仕事でも何でもない私的な取材なので、インタビューする機会はほとんどないであろう今回の旅では数少ない被災者の声を聴けるタイミングだったが、こういう映像はいつどこにおいてもやはり心にぐっとくる。
 2階の資料を一通り見たところで、ドアからベランダに出てみた。以前は駅前にも建物が並んでいたはずだが、津波でほとんど壊れてしまったのか、解体されて残っていない。地震が起きたとき野蒜駅には併設の観光公社の職員を含めて20人ほどがいたが、完全に浸水した1階から2階へ、さらに屋上まで逃げたことで全員が無事だったという。
 1階の資料室にまとめられているのが、東松島市の震災後の歩み。多くの支援を得て、少しずつ街が再建されていく道のりを見ることができる。住まいと産業が立てなおされ、福祉、教育、観光がよりよい形でつくられていく。「SDGs未来都市」を見据え、東松島市の復興はまだまだ続いている。

震災後の歩み。10年分の道しるべといえる。そして未来へつづく
「それぞれの復興」。街づくりではどの項目も決して欠けさせられない

【4】エンジンをうならせて 野蒜→女川

 滞在予定時間だった1時間半があっという間に過ぎ、駅前で売られていた牡蠣フライバーガーを食べてから再び仙石線に乗る。13時20分発の石巻行きだ。バーガーはとってもおいしかった。
 野蒜駅を出た電車は丘をつらぬくように走り、高架上に出て旧線と合流し陸前小野駅に着く。田んぼと家々の並びが広がっているところを駆け抜けていくと、航空自衛隊松島基地の最寄りである矢本駅。駅名標には空を舞うブルーインパルスの写真が入っている。東松島市の代表駅でもあり、乗降客も多い。
 新しめの住宅が増えてくると石巻あゆみ野駅に到着。2016年に開業した仙石線では最も新しい駅で、駅名の由来は「復興、未来、新生活への歩み」。実際、この駅の開設に合わせて周辺には被災者向けの住宅地が造成されており、新しい街が駅を基点にかたちづくられている。
 石巻の中心市街地に入って石巻線と合流し、13時50分に石巻駅に到着した。

石巻駅の駅舎。ステンドグラスがはめ込まれている
駅構内に立つ像。石巻は石ノ森章太郎ゆかりの地として有名だ

 乗り継ぎ時間は30分ほど、その間に女川駅までの往復切符を買っておいた。時刻通りにやってきた14時21分発の女川行きは1両運転のワンマンカーで、車内はそこそこ混雑している。見たところ僕のような旅行者は他にいないらしく、乗客はほとんど地元の人々のようだ。
 石巻駅を出て列車は市街地を疾走し、旧北上川にかかる長い鉄橋を渡ると次の陸前稲井駅に到着。そのあと長めのトンネルを抜けると渡波駅、ここで乗客の半分程度が降りていった。無人駅になったが立派な駅舎が健在である。
 右手に万石浦が見えてきた。水面に養殖用のいかだが並んでいて、ゆらゆらと風に揺られている。今日は天気もよく実にのどかだ。沢田駅と浦宿駅はその岸沿いにある駅で、こじんまりとしている。万石浦は干拓地で津波の被害はなかったが、激しい地盤沈下が起こっており、震災直後は満潮時に沢田駅がホーム下まで浸水してしまうほどだったという。
 浦宿駅を出ると万石浦に別れを告げて進路を変える。水面が見えなくなって最後にトンネルを抜ければ、そこが女川の街だ。

木組みの駅舎。ひろびろとした空間がつくりだされている

 女川駅には14時46分に到着。女川町は牡鹿半島の付け根にある町で、入り組んだ湾の奥、港を中心に市街地が広がる。ここにも大津波が押し寄せて壊滅状態となった。そのあと町は土地のかさ上げなどを行って再建され、石巻線が女川駅まで再開したのは2015年3月、駅を内陸側に200m移設しての4年越しの復旧であった。
 屋根が高く開放感のある駅舎には「ゆぽっぽ」という温泉施設が同居している。これも震災前からあったもので、当時は役目を終えた気動車が休憩所として使われていた。足湯が併設されているので様子を見てみようと思ったが、どうやら一週間前の地震から休業中らしく、入ることはできなかった。
 駅から港までは一直線、少し先に水の青が見えた。「シーパルピア女川」と名付けられたこの間をつなぐ道はきれいに整備されていて、商店街のようにたくさんのお店が並んでいる。食べ物屋さんやお土産屋さんはもちろんのこと、近くで獲ってきているのか魚屋さんまであった。店先に新巻鮭の棚が出してあって目を引く。
 国道398号にぶつかると商店街は終わって、その先は公園のようになっている。たしか3年前に訪れたときはまだ整備中で更地だった記憶があるが、今回はきれいになっていた。港にはたくさんの漁船が停泊していて、旅情がかきたてられる。海風を浴びながら岸辺を歩くのはとても気持ちが良かった。
 公園の隣、広場のような場所のすみには有名な彫刻家であり詩人、高村光太郎の文学碑が建っている。彼は女川を訪れたことがあるらしく、ここでもいくつか作品を残していったようである。表に彫られているのは原稿用紙で、そこにのせられているのは彼の自筆だろうか。非常に興味深い文学碑だった。
 スケートボードのすべる音を聞いて、また海の方に目を向けてみると、そこにあるのが離島航路の桟橋。女川港から出島と江島をまわる船が1日3便出ている。ちょうど15時半に出航する最終便が停泊していたが、客は少なくなんだか物寂しい。ウミネコの鳴き声と風に揺れる鐘のひもが、余計にそう感じさせたような気がする。

旧女川交番。漂着物もそのままだ
震災直後の写真。街は一瞬でがれきの山と化した

 女川の中心街には震災遺構がひとつある。かつての交番跡だ。津波の引き波によって横倒しにされてしまい、場所も状態もそのままの形で残されている。さすがに11年も経てば、草木が生い茂ってすっかりボロボロになっているが、劣化を承知でそのままの姿を残そう、という方針の上での保存方法だという。
 一段低くなったところにあるその交番跡をぐるりと囲むように、復興の足跡をパネル展示という形で追うことができるようになっている。15m近い高さの大津波が押し寄せ800人以上が犠牲となった女川町には、記録を残そうと「いのちの石碑」が21か所に設置されている。1000年後の命を守るために、また同じ悲劇を繰り返さないように、という理念のもと、震災の年に町立中学校に入学した生徒たちが取り組んだプロジェクトである。
 そんな「いのちの石碑」のひとつが、町立小中学校の敷地内にある。もともと駅から少し離れた高台に別々で建っていた小中学校は、町庁舎の近くに移転してきた。まだ新しめの校舎のわきに、海をのぞむようにして石碑が建っているのが見える。今日は休日、敷地内には入れなかった。
 役場や図書館などがある町庁舎に慰霊碑があった。女川で失われた800人以上ひとりひとりの名前が刻まれている。その向こうにはすっかり景色の変わった街と港が見える。哀悼の意をこめて、手を合わせた。

町役場にある慰霊碑から街を眺める

 今度は駅から山側に向かって坂を登ってみる。以前の小中学校はまだ建物が残っていて、避難所として機能しているようだった。小学校跡まではたどり着けたが、中学校はさらに坂を登った山の上にあるらしく、今回はあきらめた。
 微妙に時間が残っているので、ふたたびシーパルピアを歩いてみた。「焼さんま定食」「わかめうどん」ののぼりについついつられてしまう。やはりここは三陸、海の幸が豊富だ。
 国道に接する一番端の区画には観光案内所があった。聞いてみたところ自転車を借りて町内をぐるっと周ることができるらしい。相当な時間はかかるが、一番距離が長いものだと、女川原子力発電所まで行けないこともないという。借りておけばよかったな、と思う。前回に比べれば街をじっくりと見ることができた気はするが、それでもまだ消化不良なところはあるので、また行きたいと思う。

【5】町は夕闇につつまれる 女川→石巻

リュックサック(相棒付き)とボックスシート
駅前にあったマップ

 16時17分発の小牛田行きで、女川を離れた。駅を出てすぐのトンネルまで津波は押し寄せたという。
 真冬よりは日が長くなっているが、夕方の4時過ぎとなればもう太陽は西に傾いている。気が付いたら渡っていた北上川の水面はオレンジ色に染まりつつあった。
 石巻駅には16時50分に到着。今夜はここで泊まることになるが、まだチェックインまでは2時間以上もあるので、軽く散歩することにした。
 駅前のマップをざっくり見てみると、北上川に沿ってずっと行ったところに日和山公園があるではないか。しかも近くには震災遺構となっている門脇小学校跡があるらしい。これは行っておかねばと思い、まず駅前通りを川の方向へ歩く。電柱をふと見てみると、「3.11津波 実績浸水深1.0m」と書いてある。津波は北上川を遡上して石巻の市街地にまで流れ込んだらしく、実際に石巻駅構内では浸水で信号設備が故障してしまった。
 文化財になっている超レトロな旧観慶丸商店の角を右に曲がって、個人商店が立ち並ぶ通りを進む。いろいろあるわりには人通りが少なく、ちょっと寂しく感じた。

旧観慶丸商店。石巻初の百貨店だという
日和山公園の入口。ずいぶん日が暮れてきた

 川沿いに出たところで、やっと日和山のふもとにたどり着いた。高さはわずか60mほどだが、津波から逃れてきた多くの人々の命を救った「命の山」だ。市街地の海沿い、この山の南側にあたる門脇地区と南浜地区には6m近い高さの津波が押し寄せ、さらにそのあと山のふもと一帯は火の海と化した。現在は「みやぎ東日本大震災津波伝承館」が建ち、先に述べたように市立門脇小学校跡が震災遺構として残されている。
 山の上からはそんな海沿いの風景を眺めることができ、春は桜でいっぱいになる。頂上にある神社は平安時代からの由緒あるものだ。松島の場面でも触れた芭蕉は平泉へ向かう途中に道を間違え、石巻のこの山へたどり着いたという。そういった縁もあり、公園内には芭蕉とその弟子である曾良の像が建っている。
 川沿いをひたすら歩き続けて山の南側まできた。もう少し行けば門脇小学校跡に着けそうだったのだが、思ったよりもずっと遠い。おまけに日はとっぷり暮れて空の8割は夜のブルーに染められている。こんな場所で誘拐犯にでも会ったらたまったものではないので、あきらめて引き返すことにした。実は今回、こういったリサーチ不足で行く予定だった場所を何度かあきらめざるを得なかったのだが、それはまた後の話。
 20分近く歩き通して、山の北側までもどってきた。近くにあるのが「網地島ライン」という離島航路の発着場だ。これは石巻から牡鹿半島沖に浮かぶ田代島と網地島をめぐって、鮎川港までを結ぶ航路で、石巻の発着場からは1日3便が出ている。田代島は以前テレビで「猫の島」として紹介されていたのをぼんやり覚えている。個人的には一度行ってみたい離島のひとつだ。

いしのまき元気いちば。「元気」と「おいしい」をまるごと堪能できる市場、と銘打っている

 そこからまた歩いて、「いしのまき元気いちば」というのを見つけた。石巻に店や工場を構える企業が大集合してできた場所で、魚や野菜、そして総菜まで、たくさんのものが売られている。2階にはフードコートもあり、ここで晩ごはんにしようかとも思ったが、今は一刻も早く宿に着きたいので、パンだけ買って退店。再訪の理由がまたひとつ増えてしまった。
 薄暗い街をまたてくてく歩いて、今日の宿「FUTABA INN」さんに到着。落ち着いた雰囲気の宿で、部屋も僕一人で泊まるぶんには十分な広さ、シャワーも浴びられた。
 金華さばカレー味のサンドイッチと香煎ロールケーキを食べ、コインランドリーでSSを読みながら時間をつぶし、とまったり過ごす。
 明日はどんなものが見られるのか。期待と不安を抱えながら、2日目が終わった。

次回に続く。

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