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鉄道とBRTでつなぐ、春の三陸海岸 ①1日目(東京→原町)

 2011年3月11日午後2時46分頃、三陸沖深さ24km付近を震源とする、最大震度7、マグニチュード9.0の地震が発生した。東北地方太平洋沖地震、そしてその被害の総称が東日本大震災である。
 多くの建物やインフラが損傷し、都市部では多数の帰宅困難者が発生、臨海部では液状化現象が起こった。また、揺れによって引き起こされた巨大津波が太平洋沿岸部を襲い、壊滅的な被害を出した。そして、東京電力福島第一原子力発電所では、津波で冷却用電源を失ったために爆発事故が起き、周辺地域が被害を受けた。2021年3月現在、震災での全体の死者は1万5899人、いまだに2526人の行方がわかっていない。

 いろいろなものが失われ、いろいろなものが変わったあの日。これからのために、風化させることなく、伝え、繋いでいかなければならない。

 震災で被害を受けた地域を見たい、とはここ4年近く考えていたことだった。福島に何かと縁がある身なので、津波に襲われた沿岸部の状況、そして原発事故の被害を受けた地域についてはある程度見てきたつもりだった。しかし、宮城県と岩手県のことについては、まだ自分でわかっていないことだらけだった。そもそも行ったことすらなかったので、これは一度現地へ行かねば、という強い思いがあった。そして今回、それがようやく叶うこととなった。
 本来は10年の節目を迎えた昨年の夏に行く予定だったが、新型コロナウイルスの感染が拡大して直前に緊急事態宣言まで出てしまったので、泣く泣く延期を決めた。つまり、今回は夏のリベンジである。
 東日本大震災から11年。今まで僕が直接触れてこなかった三陸を、しっかりと肌で感じてこようと思う。

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↓震災後10年に際し昨年(2021年)執筆した記事です。僕の思いをここからも読み取っていただけたら幸いです。

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以下本編。

【0】予想外のアクシデント 東京→福島

上野駅。北への旅はここからじゃなければ始まらない
ミルクスタンドで買った牛乳とカレーパンが朝ごはん

 2022年3月25日、金曜日。上野駅にいる。
 北の玄関口として名高かったこの駅も、新幹線の開通以来その栄光は徐々に失われつつあるが、他の駅にはないターミナルとしての魅力が僕は大好きで、東北に行くとなれば、必ず上野駅の地平ホームに最初に立ち寄ることにしている。
 朝ラッシュを迎え、宇都宮線や高崎線の電車が地平ホームにも入ってくる。今やすっかり寂しくなったこの場所の、数少ない賑わい時だ。回送列車で「踊り子」号用の特急車両がやってきたり、651系「スワローあかぎ」が到着したりと、バリエーションも豊かで見ていて楽しい。
 旅立ちの気持ちを高めたところで、次に向かったのは秋葉原駅。総武線乗り場に「ミルクスタンド」というものがあり、多種多様な瓶牛乳、惣菜パンなどが売られている。朝ごはんをさっといただくにはいいお店だ。個人的には空気感も人気の理由の一つだと思う。

東京駅。東北新幹線は本数5割減での運行

 さて、今度は東京駅にやってきた。時刻は朝7時40分ごろといったところ。ここからが旅の本番で、東北新幹線に乗って北を目指す。
 新幹線の改札口に来て電光掲示板を見てみる。上越新幹線と北陸新幹線はいつもどおり、とき号やかがやき号の表示が並んでいるが、一方の東北新幹線は、はやぶさ号ややまびこ号がなく、郡山行きのなすの号しかない。
 この旅をスタートするおよそ1週間前の3月16日に、東北地方ではマグニチュード7.3の地震が発生した。津波こそごく軽微で済んだものの、建物やインフラなどで大きな被害を出した。東北新幹線も例外ではなく、高架橋が損傷、架線柱が倒れるなどし、全線再開には1ヶ月ほどを要すると見込まれていた(今回の旅を始めた3月25日現在、郡山〜一ノ関間が不通であった)。
 計画段階では地震が起きてダイヤが狂うことはまったく予想していなかったが、今回の旅は延期せず予定通り行うことに決めた。

 8時08分、「なすの407号」郡山行きは時刻通りに東京駅20番線を出発した。不通区間があるという事情もあってか空席が目立つ。飲み物を買い忘れていたことに気づくが時すでに遅し、なすの号に車内販売はない。
 大宮駅でそれなりの数の人が乗ってきたが、それでも僕が乗った14号車の乗車率は6〜7割といったところか。そこから小山、宇都宮、那須塩原、新白河と各駅に止まって徐々に人が減っていき、9時41分に郡山駅に到着した。
 コンコースに降りると、上り線ホームへの階段は閉鎖されていて上がることができなかった。なんとも寂しいものである。
 人の流れに乗って改札口を出て友人と合流し、4時間ほどゲームセンターで遊んだ(このことはまた動画にでもしようと思う)。福島へ行くもうひとつの目的はこれだった。

郡山駅に到着。当駅より北側は不通だ

 もっと時間が欲しかったが、僕は夜になる前に原町まで出なければならないので14時半頃に別れ、東北本線で北を目指す。
 14時41分に福島行きの普通列車が出発。今朝も早起きした上に目一杯遊んだのでヘトヘトで、おまけに車内は暖房が効いていてあたたかい。うとうとしている間に二本松駅まで来て、少し先の金谷川駅で乗客が一気に増えた。福島大学で卒業式でもあったのか、和装をした人もいる。
 列車は結構な混雑具合で、終点の福島駅に滑り込んだ。15時35分着。

【1】バスに揺られて、飯舘村 福島→原町

福島駅。阿武隈急行線は震災時も線路がゆがむなどの被害が出た

 福島駅の改札口には電光掲示板がかかっていて、運転を見合わせている東北新幹線は無表示。一方の東北本線は臨時快速の表示があり、奥羽本線には山形新幹線「つばさ」がいる。奥羽本線と田沢湖線含め在来線はすべて動いているので、「つばさ」と「こまち」は東北新幹線に入らず折り返し運転を行っていた。
 駅を出て左に進み私鉄各線の改札口にまわると、運転を見合わせている阿武隈急行線の時刻表には張り紙が。2019年の台風といい今回の地震といい、災難続きの路線だ。
 福島は有名な作曲家・古関裕而の出身地で、福島駅の東口には彼の銅像が建っている。連続テレビ小説「エール」の主人公のモデルになったからか、やはり以前よりも注目度は増しているようだ。
 僕がこれから乗る原町駅前行きの福島交通バスは東口のロータリー、10番ポールから出ている。会津若松駅行きといわき駅行きの高速バスを見送って、発車直前にバスがやってきた。路線バスのくくりに入っている当路線だが、長距離ゆえか車両は高速仕様の大型車だ。
 16時05分、両手で数えられる程度の客を乗せて出発。しばらく福島市の中心街を進んだ後、国道4号バイパスに入って一気に加速し、市街地から離れていく。
 途中でバイパスからそれて県立医科大学病院で停車し、そこから飯野地区方面へ向かう。かつては飯野町だった地域で、2008年に福島市に編入された。「UFOの里」と銘打っており、UFOの目撃情報もあるのだとか。学習センターの横に蒸気機関車が保存されている。飯野はかつて国鉄の川俣線が通った町だ。
 谷にかかる高い橋を渡ったあと国道114号を走り、のどかな風景が続きときどき集落が現れる、そんな車窓が繰り返されるうちに川俣町へ入った。平安時代から絹織物業が盛んで、近年はそれに代わり部品製造の工場が立地している。また、川俣シャモが特産品として評判を呼んでいる。
 しばらく町の中心部を走って、外れたところに福島交通の川俣営業所がある。ロングランだからかここでトイレ休憩が可能だが、希望者はおらずそのまま出発。福島駅を出てからここまで乗客の変動はほとんどない。
 JRバスの営業所の横を通り過ぎて、飯坂小学校のあたりからは上り坂の区間になる。カーブも連続しており、ケータイを見ていると酔ってしまいそうだ。それなりに道が整備されているとはいえ、大型バスにはちょっと窮屈に感じる。
 坂を登りきったところが川俣町と相馬郡飯舘村の境だ。飯舘村は阿武隈高地の中に位置する村で、標高は500mほど、温暖な気候の福島県浜通りでは涼しい部類に入る。特産物で有名なのが黒毛和牛で、飯舘牛としてブランド化されている。
 震災で飯舘村は原発事故の影響が深刻なものになり、一時期は全域が避難区域に指定されていた。現在は除染がほとんど終わり2017年3月に避難指示は大部分の地域で解除されたが、長泥地区だけは帰還困難区域に指定されたままで、立ち入りが制限されている。
 右手に小学校の跡が見えてきた。村内に3つあった小学校は2020年4月に中学校とともに小中一貫の義務教育学校に統合され、「いいたて希望の里学園」と名付けられた。今でも以前の学校の建物は残っているようだ。
 避難指示が解除されたとはいえ、やはり人の戻りは悪いらしく、県道沿いもあまり元気には見えない。まだ営業を再開せず、震災のあとそのままになっている建物もちらほらあって、現実の厳しさを実感した。酪農や稲作などの農業、畜産業も震災前の活況には程遠い。そんな中でも、観光客向けにイベントを開催したり、移住者に対する支援をしたりと、村を盛り上げるべく頑張っている人々がたくさんいる。飯舘牛も、生産者が帰還して復活させようと動いているそうだ。

「村の道の駅 までい館」。「までい」とは飯舘の言葉で「丁寧に」「心を込めて」という意味

 塩の道と呼ばれていたらしい県道12号をしばらく進んで、道の駅「までい館」に立ち寄る。農産物や名産のどぶろくをはじめ様々な品が売られ、遊び場やドッグランが併設されるなど、人が集まる村の復興拠点として活躍している場所だ。僕も数年前に一度訪れたが、雄大な自然に囲まれて、あたたかみのある杉材が使われた建物もまた癒しになった。飯舘に来たらまず行ってほしい場所である。

「いいたてミートプラザ」。ここが再びにぎわう日がいつか来るだろうか

 田んぼが続く区間が終わり、バスは再び山に分け入っていく。この先には八木沢峠があり、山の上にある飯舘村から海に面する南相馬市へ向けて駆け下りていくことになる。古くは相馬街道の難所となっており、かつては連続カーブと急勾配で峠を越えていたが、復興事業の一環として全長2345mの八木沢トンネルが5年がかりで整備されて2018年3月に開通し、利便性と安全性は大幅に向上した。なおトンネル開通前の道は2代目で、1977年まで使われていた初代の道はもっと過酷だったとか。
 長いトンネルを抜けていよいよ南相馬市、原町区に足を踏み入れる。旧道に比べると味気ない峠越えのようにも感じるが、やはり快適さはこちらの方が断然上だ。トンネルの先は川沿いの谷を橋で渡りながらぐんぐん下って行って、次第に家が見えてくるようになる。
 いまだ通行止めの県道267号が左に分かれていって、さらに下ると景色が一気にひらけた。常磐自動車道の立派な高架橋をくぐり、バスは原ノ町駅を目指してひた走る。

 市街地に入り、南相馬市役所の前で僕はバスを降りた。あと10分足らずで原ノ町駅に着くが、祖母が迎えに来てくれているらしいので、今日はここまで。
 せっかくの帰省なので、少し羽を伸ばそうと思う。

ー次回に続くー

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