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イラン映画「精神病棟のプロポーズ」500人の患者から結婚するカップルを生む

この世には2種類の人間がいる。主観を信じてもらえる人、主観を信じてもらえない人。

イラン映画「精神病棟のプロポーズ」を観た。イラン女性がメガホンをとるドキュメンタリー映画。舞台は「エーサンの家」というイランの荒涼とした砂地にぽつんと浮かぶ精神病院で、監督の元夫もまた幻覚を見るようになりここではないが精神病棟に入ってしまった人間だそうだ。
『愛は人生をダメにするが、存在の境界を捨てる勇気をくれるものである』
これは監督の元夫が幻覚を見ながら、亡き母親を想い口走った言葉だという。

「エーサンの家」は敷地内に畑や広場があり患者も自由度が高く散歩も自由なようで、開放的な刑務所といった形容が正しく思えた。女性たちは手鏡を持ち、メイクをする。男女ともぷかぷか庭に座り込んでタバコを吸っている。寝るときは大部屋に敷き詰められたベッドに雑魚寝だ。消灯後してからも部屋から出て建物にもたれてタバコを吸ってもいい。なんという自由さだろう。画面の中にはどこにでも自殺できそうな場所が見つけられる。庭の木ビニールハウスの柱、建物と建物の間の広場。日本とあまりにも違う病院環境にいちいち目を丸くしてしまうが、これは宗教観も風土も違うせいだろうか。

この病院内で「結婚プロジェクト」なるものが進められた。入院患者から結婚できそうな4名を選び、結婚させようというのだ。気が早くも新婚カップルのための新居まで施工が始まっている。
5名ほどの医師がテーブルを囲み狭い部屋で現地の言葉を荒げていた。
「感情的欲求も本能的欲求も満たしてやりたいんだよ」
「そんなことは治療の妨げになるだけだ」
どうやら治療者の間でも意見は割れているらしい。10歳以下でこの施設に入り、ここで一生を終える終身刑の人もいる。結婚願望を満たすどころか恋愛や性的興味を満たすことができない。男女は寝る場所と食堂は別のようだが、日中の活動場所である庭や作業は行動制限がないだけあり共用のようだ。それは恋のひとつもするだろう。しかし戒律のせいかおそらく結婚まで貞操は保たれる。結婚しなければキスもセックスもすることはできない。そうなれば人を好きになることの無意味さに沈むだけで、人の持つ当たり前の欲求はこのように押さえて仕舞いこむしかなかったのだろう。

治療か、人生の質か。それは究極の問い。
だが、誰にとって究極の問いなのかは観終えてもよくわからなかった。恋をした患者はその相手と結婚したいと願う。すでに両想いの男女が数組はいる。
その関係を進展させるかを決定するのは、本人たちのいない密室で、また医者や介護士5名ほどがやいやい議論する。「○○は結婚するほど病状がよくない」「向いていない」「ためにならない」「家族の支援がない」そんな言葉が飛び交う。ジャッジするのは医者や介護士で、その言葉は聞いていて岩目て客観的で理知的だ。
「男じゃなくて『結婚』が欲しいの。子供が生まれたら母乳はあげるけど、育てられないからすぐ福祉団体に引き渡すわ」
などと平然と笑って話す患者に比べれば、治療者たちの議論はいかにも賢明な判断のようにも聞こえる。正しくて根拠が合って将来を憂う先見の目がある。だからと言って「結婚が欲しい、子供は育てられない」の見ている現実が真実の世界を映し出していると言えないと、誰が言えるのだろう。

主観ほどカラフルなものはない。数が多いものもない。人生史の数だけ主観は生産される。先ほどの『結婚が欲しい』女性は幼児期兄に殴られて頭を強打して以来家庭でしゃべることを慎んだ。そして10歳ころから暴れるようになり家では邪魔になってこの施設にやってきた。画面の中でもいつも笑っている。「結婚が欲しい」という理由は男性の愛情や抱擁に飢えていて、子供を欲しがるのもまるで幼少期の自分を慈しみ取り戻したいようにも見える。彼女には年上の好きな男性患者がおり、その男性患者もその女性を好きになった。二人は職員とタクシーに乗ったとき密かに後部座席で手を繋ぐ。

職員が彼女の家に理解を求めに訪問すると、けんもほろろに罵られ追い出された。親兄弟はすでに彼女を「死んだ」と近所に知らせているらしい。「あいつはもういない」と言われたことを、彼女は知らない。結婚プロジェクトは結局停滞し、モスクの礼拝の場で医師から中止が発表された。

なんとなく「あいつはもう死んだ」と怒鳴り散らす彼女の兄の音声を聞いていたら、私の実家の母が思い浮かんだ。私が未だになぜ自分だけが精神を病み入院までしたのかということだ。そのことを私は「自分が一番年が小さく弱かったから」と長いこと結論づけていたと思う。高校1年生のとき突然私の周りの景色はのっぺりとした油絵のように平面になったのだ。通学中電車の窓越しに見える山々もただの二次元の絵になった。絵の中を歩いているようでいつも吐きそうだった。その後様々な症状を罹患し大学生で入院となった。このとき母はつらつらと「私はものすごくいい母親だった!」とさっきのイラン家族と似たように怒号をあげていた。
社会と精神病棟の関係はいびつだ。歪んだ者も案外社会で淡々と生活ができる。母だけでなく父や姉もそのように飄々と社会を生き抜いていた。そのまま彼らは「主観が信頼される側の人間」を生き抜き、私は「主観が信頼されない側の人間」を歩むこととなった。

個々の数だけ現実は無数にある。本作は精神症状でもお国柄なのか幻覚に焦点が当てられることが多く、幻覚が見える患者がよく幻覚への悩みを吐露していた。ムハンマドやジョン・レノンも幻覚を見たけれど、その幻覚はよくて一般人が見る幻覚は病的なのだろうか。その境界は曖昧模糊としてわからない。エーサンの家にいる人といない人のリアリティにどんな優劣があるというのだろう。この世の大多数の人間が幻覚を見たら、少数の幻覚を見ない人間が悩みあぐねて精神病棟に入るのだろうか。「自分を客観的に語ることができる」ということが正常の条件であれば、私はそんな能力は欲しくないなと思った。そのような人がエーサンの家のスタッフにもたくさんいて、先進的なようでなにか大切なものが切り落とされているようにも見える。頭でっかちで心配性で先のことばかり考える。客観性とはそういうことなのだろうか。主観が当てにならないのは他者が自分を見る時だけだ。それ以外のときは主観ほど頼もしいものはない。主観は権威ある者にジャッジされるものでもないし、人生の質を問うときに最も役立つ高価な誰にも奪えない宝石のようなものだ。
神戸市立市民病院に紹介状を持って歩いた18歳。薄暗い廊下を一人、ぐんぐん抜けていく。内科や外科のざわめきが嘘のように消えた最奥にひっそりと精神神経科がある。18歳の私に、そこは「エーサンの家」のような最後の私を受け入れてくれる、しがみつくべき最後の受け皿があった。そのとき以来私は「あなたの主観は信頼されません」という人生を歩んでいる。

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