自殺と自傷は罪ですか

↑これと同じタイトルのコラムを読み同じテーマで書きたくなったので書きます。
経験者として言いますが、罪です。自傷回数おそらく二千回、自殺未遂回数おそらく50回、そのたびおめおめと生き返ってきた私ですが、あんとき死んどきゃよかったな~って絶対に思わない。そりゃあんた、今がそこそこ幸せだからでしょって言われそうだけど、悩みのレベルなんて今も昔もそう変わんねーよ。人は生きてるだけで辛いし傷つくものだ。悩みがなくても起きてるだけでしんどいものだ。ハッピーハッピーで浮かれポンチな人生が存在すると思ってんのかよ?人生ってのはステージだぜ。学びのステージ。それを、私だけ苦しいのよなんて自己れんびんの悲しみ温泉に浸かっているのはなんだかなぁ。ぬるま湯で心地よくって出られないのと同じなんだよなぁ。「鬱状態というのはそういう思考が働かないのです」ってそうかもしんないけどさ、てか私もきっとそうだったんだろうけどさ、でもそうじゃない一面もあるわけだよ。ほんとはこういうふうに生きられたらいいのにとかさ、世界がこんなんだったらいいのにとかさ、自分自身がもっとこうだったらとかさ、他人がこう生きてくれればとかさ、願望がなければ死ぬ気も起きないわけです。本当に人生がどうでもよければ、生きるのもどうでもいいはず。死のうなんて動機も起こらないはず。生きることがどうでもよくないから、振り子の法則のように反対側へ死にたくなるんですよ。それだけ生きることにこだわりがあることですね。それは、長所だと思いますよ。言い換えればエネルギー。
罪というのは言い過ぎじゃないのかというかもしれないけどね、そらやっぱ、罪深いですよ。人を殺したら罪深いのに自分を殺したら罪深くないってそんな理屈は通じないと思います。命を殺すということにおいて同じじゃないですか。その代償は他人をドン底に突き落とすという意味で同じです。
人は寿命まで生きたらそれだけで美しいのではないでしょうか。人生の中の付加価値なんて本来不要ですよ。財とか地位とか名誉とか。誰が考えた向上システムか知らないけど、そういう一部の成功者が祭り上げられる仕組みを私は歓迎しないね。人生にも人の命にも生き方にもパーソナリティーにも優劣なんかないわけだよ。そんな物差し棄てっちまえよ。どうせあの世に持ってけないんだからさ。
私としては、生きることは祈りだと思っています。起きる、飯食う、トイレいく、窓開ける、全部祈り。仕事も祈り、仕事しないも祈り、育児するも祈り、育児しないも祈り、勉強するも祈り、勉強しないも祈り。なんだよそれ宗教かよって言われそうだけど、そうさ、宗教さ。人間教さ。人間なんて魂のカタマリだろ。指先まで魂が詰め込まれてるカタマリさ。だからすべてが祈りなのさ。何向かって祈るのか、それは、心を静めて知れ。強いていうなら人でありながら人との差異を認めて、俺ってこんなに違うんだーすごくね?って優越を味わう祈りさ。人と比較するのはいいことだよ。ただしそれは、人との違いに劣等感を感じるのではなく、人と自分の違いに気づいて、自分はこういう差異がある唯一無二の魂じゃねえかすげえやって知ることが祈り。
わかるかな、だから自傷も自殺も止めとけ。ちょうど袖口の見えるか見えないかのところに傷を作るなら、ちゃんと言葉を使って誰かに電話しろ。いなければわしに電話しろ。以上だ。

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