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聖なるものに繋がる一語を持つ

1か月ぶりに日曜礼拝へオフライン参加。
プログラムの初めの讃美歌が始まった頃に遅れて入室し、後ろから3列目に座った。隣の座席には「×」とテープが貼られてソーシャルディスタンスは厳重だ。
2つ隣にいた女性チャーチメイトに会釈だけし、なんとなく孤立しながら腰かける。

ジル牧師(アメリカ人)が教壇に立つ。相変わらず朗らかな笑み。あの笑みが崩れたところをこの七年間で見たことがない。一体どこから蓄えられるのだろう。
この日の聖書箇所は旧約聖書の歴代誌(サムエル王の隆盛と堕落)だった。
十分もすれば、ジル牧師の話がどんどん深化していく。つられるように、わたしも頭に音楽のようなものが流れ始める。思考とは異なる無意識から奏でられる裡なる反応する声を、膝に開いていた聖書の薄っぺらいページに速記していった。
ソロモンはダビデの息子だ。神に祝福を受け富も知恵も与えられた栄華を極めた名だたる王だ。だが、ソロモンでさえその謙遜を貫くことはできず、晩年神と離れた暮らしを送る。

「人間の心にはいくつか部屋があるんですね」
ジル牧師がおもむろに胸に円を描く。
「思考パターンの部屋、態度の部屋、家庭の部屋、人間関係の部屋……。それぞれの部屋にはカギがあるんです。そのカギをイエス様にあげるんです。全部の部屋のカギをあげるんです。この部屋だけはあげない、ここは自分で守っておきたい、じゃダメなんです。すべての部屋のカギをイエス様に明け渡さなければいけないんです」
ジル牧師は日本の教会で王道であるような礼拝形式を採らない。聖書をあっちいったりこっちいったり引きながら、その日も「人が神の霊に満たされた生きるとは?」といった壮大なテーマに挑んでいた。

ふと、ジル牧師のよれた青いチェックのシャツに、褐色の裸体が見えてくる。皮の腰巻姿をつけ、筋肉のスジが通っている。その肉体は次第に、磔刑のごとく両手を開いた格好になった。それからぐんぐんわたしの目の前に近づいてきて、ズームレンズのように前の席に立ちはだかった。うえっと気分が悪くなり目を閉じた。

もう一度目を開けたが、やはり十字架状に開かれた腕と胴が眼前にあった。無色透明だが、確かにあるように見える。これはなんなのだろう。
吐き気に聖書に目を伏せ、耳はジル牧師の声を拾い続けなければいけない。次に顔をあげたらわたしの席だけが黄身を帯びた温かい球体に包まれていた。少し吐き気が治まりこのイメージに身を委ねてみたら、ふわりと掬い上げられるような感覚がある。わたしは球体に持ち上げられ、おそらくこのまま天に昇るのだと思った。一種のトランス状態だ。
聖書の登場人物は、神の働きによりしょっちゅう口がきけなくなったり目が見えなくなったりぶっ倒れたりしている。ジル牧師の霊性の高さのためか、あるいはわたしが霊性を高めたいと久しぶりに礼拝に臨んだからかわからない。ただ理性では礼拝で聖書の登場人物のようにこのままトランスしていくのも恥ずかしいと思い……意志の力で激しく押さえつけた。たぶんあのまま放っておくと、立ち上がってくるくる踊ってしまったかもしれない。
球体は上空からゆっくりと教会の建つ地に降りた。私の座席をくるむことだけは、終わらなかった。球体の抽象イメージを拾う。聖書にカラーペンで思い付くまま書き付ける。
「天国は天上にあると思うなよ、地上にだってそれは実現できるんだ、お前はそれが見えていないだけなんだ」

聖餐式があった。パンとぶどうジュースが信徒ひとりひとりに手渡される。奏楽と共に目を閉じて信徒は静まり返って祈った。
パンはキリストの身体、ぶどうジュースはキリストの流した血である。
「では、いただきましょう」
パンを口に入れた。唾液が染み渡る。眼裏に、喉仏を強固に突き破る祈りが広がる。
「神様、あの方に、わたしのいのちのすべてをどうかあげてください。わたしのいのちなどどうでもいいのです。どうかこのいのちをあげてください。お願いいたします」
浮かんでいたあの方というのは、この日、どちらかというと腹が立っていた人だった。なぜこの人にいのちをあげたいなどと祈っているのだろう‥‥‥。わけがわからない。ことばに自分が追い付けない。ただし、それは熱を帯びた強烈な祈りだった。

ジル牧師から何度も何度も「イエス」という言葉を聞きながら、ぶどうジュース、キリストの甘い血を一口に飲み干す。こころとわたしのリアリティは、ちがうことに気づく。こころは、わたしにとってときどき他者になるらしい。こころにはこころのリアルがある。こころはわたしの「相手」にさえなる。
こころという他者がイエスになったとき、たぶんその姿がジル牧師のような100パーセントイエスに肉体を明け渡した姿なのだろう。「イエス」、それはわたしにとってまことのオープンザセサミ。聖なるもの(ここでは父なる全能なる神)に繋がる一語。そういう一語に出逢えた地の世を幸せに思う。なぜなら世の悪に立ち向かうとき、それに勝てるのは善ではないから。悪に勝つのは、聖なるものだけ。それに繋がる扉が、誰しもある。

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