心耳という叡智(こころの耳で聞く)

二メートルはある額縁に収められたモネ「睡蓮」。両まなこの水晶体がくっついた。小二のわたしは親に着いていくのも忘れ立ち止まる。足が棒になり吸い込まれる。絵の持つ吸引力のせいか、むしろ放たれる放出力か。青のようで青でない、虹よりも多い色数の巨大なカンバスに、小二のわたしは動けないままだった。死にたるモネと対話がはじまる。練り込まれた黄色、尖った紅色、絵の具から光のコトバたちを受けとりながら、わたしもまた、光の放つコトバを同じように聞き出そうとする。モネという筆を通して。心眼という言葉は聞き慣れていても、心耳(しんじ)という言葉はあまり知られていない。心の耳で聞くということ。わたしたちがものを「みる」とき、本当は心の耳でそのもの固有のコトバ聞いているのかもしれない。文字になりえないコトバ、静寂の放つコトバ、イメージの、音の、いのちの、それぞれのコトバ。頭脳的言語だけで人間は世界を覆い尽くしてしまった。今、封印をとくべき時が満ちている。

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