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当事者+支援者というID

R4年1〜3月に読んだ本は、信田さよ子『アダルトチルドレン 自己責任の罠を抜け出し、私の人生を取り戻す』、小松原織香『当事者は嘘をつく』の2冊だった。この2冊を読んで、人がACや性被害当事者と名乗ることの意味や、当事者性を持った支援者のアイデンティティについて考えさせられた。

私は純粋な被害者なのか。私の身に起きたことに対する私の意味づけは正しいのか。もっとつらい人がいるのだから、自分が被害者や当事者として名乗る資格はないのではないか。当事者性を開示しようとする時、そういう不安がつきまとう。そういう気持ちになって苦しむくらいなら、支援者としてだけ生きればいいのか。私は精神科の医師であり、また、ACであり、共依存者であったし、強迫性障害、DV被害・性被害の当事者でもある。

私にとって怒鳴り声や暴言より怖かったのは、こんなにも言葉が通じない人間がいるということや、自分自身が毎回同じような目に遭っていて成長しないこと、何事もなかったかのように日常が普通に続くことだった。それは怖くて気味が悪い現象だった。

支援者と当事者はどこまでわかりあえるんだろう。加害者と被害者はどこまでわかりあえるんだろう。そこには深い溝があり、私は多くを期待していない。でも完全に諦めてもいない。私は支援者や加害者への”怒り”を原動力にして生きのびたタイプではなかった。私は支援の限界もよく分かったし、一緒に働いた支援者達(精神科医など)の人間らしさ(時には困った患者について愚痴る等)さえも好きだったから。また、被害と加害は一人の人間の中に同居すると分かったから。

加害者に会いに行っても、加害者のもとへ戻ってしまっても、その事実が、あなたや私が被害者ではないとか、そこにはDVや性暴力がなかった、という根拠にはならない。自分の身に起きたことの意味を確かめたくて、被害者は加害者に会いに行く。今度はうまくいくと信じて、幼少の頃満たされなかった何かを得ようとして、何度も同じような人に吸い寄せられ、同じ目に遭う。自傷行為として、あるいは復讐心で、性風俗で働き続けたり性依存的になる。”虐待の連鎖、トラウマの再演、自己治療としての依存症” そういう専門家(支援者)による当事者理解が当事者を救うことだってある。

また、ACだから被害に遭いやすいということと、加害者は悪くないということは違う。加害者が悪いということと、AC本人が生き方を変えないままでいいということは違う。ACの人に言いたいことは(私もACという自覚があるので支援者の自分がACの自分に言いたいことは)、”あなたは悪くない。罪悪感や恥の感情を持たなくていい。でも、あなたが変えられる部分は変えていくことが必要。自分の人生に責任を持って、自分で自分を大事にすることが必要”ということ。

だからといって、相手を赦すとか、そういう行儀のいい当事者にならなくていい。感情を押し殺して冷静に語るような、支援者を困らせない優等生的な、わきまえた当事者にならなくていい。すぐに変われなくていい。すぐ変われないということが前提にあると思っているから。

支援者は当事者同士ほどには分かってあげられないが、分かろうとしているし、よきことをしようと頑張っている。私も、自分が経験していないことに関しては当事者ではないので、分からないなと思いながら、分かろうとしていて、それが時には専門的な”解釈”の言葉になったり、何かずれた誘導をしてしまって、相手を傷つけているのかもしれない。それでも支援を辞めずに続けている。支援者-当事者、加害者-被害者。対立と対話を繰り返していけたらそれでいいと思う。限界と可能性の中で。

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