私が女性カウンセリング活動をする理由

自分がなかった

 私の幼少期、家では祖母が君臨し皆祖母の意見に合わせていた。祖母と祖父は不仲だった。母は、祖母から傷つくことを言われても我慢し続け家事を完璧にこなした。医師になりなさいという、祖母とそれに従う父の方針・期待に応えなければならなかった。自分がなかった。感情があまりなかった。冷め切っていた。母を守りたかった。家族の雰囲気を丸く収めたかった。のちに生い立ちを聞いたら、祖母も父も母も、幼少期の癒えていない心の傷があったために私に対して不器用な愛し方になったんだろうと思えた。
 小学校の帰り道、足が浮いて歩きづらくなることがあった。いじめに遭った。小、中学校は優等生。高校は眠ってばかり。登下校の電車でもバスでも高校と塾の授業中も、ほとんど眠っていて、白昼夢にいるようでぼんやりしていた。解離していたのかもしれない。大学に入る直前、強迫性障害になり、施錠やガス栓などの確認を何度もするようになった。大学時代、研修医時代、そして精神科医になってからも、共依存の恋愛(精神的・性的なDVを受ける)を繰り返した。仕事で患者さんに熱心にかかわりすぎて結果的に患者さんの力を奪ってしまったり、Noが言えず仕事を抱え込んだり、ワーカホリックで夜中まで仕事をし、うつ状態になったりした。

自分の過去を話すことができたのは自助グループだった

 これまで、いくつかの精神科で患者としてお世話になったが、自分自身の内省が足りていなくて、また、自分自身が精神科医ということもあり今後仕事上どこかで顔をあわせるかもしれない精神科医に自分の色々なことを知られることが怖く、主治医に深い部分の話をすることはできなかった。強迫症状やうつ症状の悪化時に薬(SSRI)は効果があったとは思うが、長年飲み続けることはしなかった。飲み続けたとしてもどうにもならない問題が自分の中に残ると感じていた。
 AC(アダルトチルドレン)・共依存と自覚し、ある自助グループにつながったのは30歳代前半。そこで初めて自分の過去や本当の気持ちを話し涙が流せた。主体性がないまま生きてきた自分、Noが言えない自分、誰かに必要とされているとか生きているという実感がほしかった自分に気づけた。自助グループの仲間が話す物語はどれも違うのに、世界の見え方・行動の仕方は驚くほど自分と似ていた。仲間の言葉は自分の言葉のようでもあった。共感に満ちた場で話を聴くに連れて、自分の言葉を得て自分の物語を作り、自分の正直な気持ちも話せるようになっていった。

なぜ女性カウンセリング(自費診療)に特化した精神科クリニックを開業したのか

 手放したものはたくさんあるけれど、それによってだいぶ楽になった。精神科医の標準的なコースからは外れてしまった。専門医も指定医もとれていない。大学病院で精神医学について一から色々なことを教わったのに、大学病院に長く残って貢献することはできなかった。色々な失敗をし患者さん達にも迷惑をかけた。でも、紆余曲折の中で、社会福祉学を学んだり、ACT、オープン・ダイアローグ、複雑性PTSD概念など新しいものを見聞きしたりし、発達障害児やトラウマを抱えた女性を診る機会にも恵まれ、少しずつ成長できた。
 精神科医になってから精神科医療・福祉についての問題点をたくさん目の当たりにした。保険診療の枠組みでは薬物療法中心にならざるを得ないこと(患者さんと充分に対話する時間を作れないこと)、精神障害者の長期入院の問題、加害者支援が拡充していないこと、そういった支援の質の問題。精神医学の診断分類も精神医療・福祉の在り方も、発達障害とトラウマが診療の中心になる時代に入ってきて、良いほうへ変わってきている。でもまだ、当事者にとっていい状態が整ったとは言えない。
 精神障害当事者としての自分が、自分の中に確かにいるから、そういった人権・人の尊厳にかかわる問題に少しでも取り組もう、この業界で働こうと思えている。その動機付けがなかったら、自分はからっぽなんじゃないか。それがあるから、世の中がグレーがかったように見えているくせに、なんとか生きている。自分にしかできないことなんてないけれど、自分にできることを探してやっていこうと思った。病棟での急性期治療も、外来での素早く短時間で切り上げる診療も、私にはうまくできない。焦ると確認強迫の症状が出てくる。男性患者と共依存にならずにきちんと回復させてあげられる自信もなかった。自分にできることは、当事者とか女性という自分の記号を使って、同じような女性の話をゆっくり聴いていくこと。そのため、女性カウンセリングに特化した精神科(自費診療のみ)を開業し、診療させていただいている。

なぜ自分の精神障害や過去を公表するのか

 自分の当事者性についてここに開示した一番の理由は、同じように悩んでいる女性の力になりたいと思ったため。私が自助グループで初めて自分の過去を話せたように、当事者同士だから話せることがあると思ったため。そして、味方になってくれる人が増えてほしいと願っているため。
 ここに書いた物語は自分の一部であって、全部ではない。幸せなこと、楽しいことも確かにあった。だからといって傷ついたことを無かったことにしなくていい。傷ついたからといって失態ばかりしていた自分は消えないし、消さないで、できることをやっていきたい。私はACであり、そこからの回復とは一時点のゴールではなく、ずっと続くもの。一日一日更新していくもの。ささいなことから共依存の世界へ転落していくのを知ったから。一日一日のささいな選択を間違えないように気を付けたり祈ったりしながら、慎重に、気長に、自分自身とつきあっている。自分自身の回復のためにも公表すること、正直になることは大切だと思った。どこまで公表しどこから秘密にするかは自分で決めていいはず。そうやってずっと考えた結果、ここに自分のことを公表した。とても悩んだけれど、実名での公表はまだできなかった。Shioriは実名ではなく、自助グループで名乗っていたアノニマスネーム。

トラウマを抱えて苦しんでいる女性へ伝えたいこと

 私には悲しいほどわかる。頭でわかってもできないことがたくさんあること、濃い関係性じゃないと安心できない気持ち、精神科に来た理由は診断名と薬をもらうことがメインではないこと、主治医に自分のことを分かってほしいけど、簡単に分かってもらいたくもない、だから肝心なことが話せないということ、心がからっぽで、自分が何をしたいのかわからない感じ。心を病んだ人の気持ちはぴったり同じではないだろうけど、似たような世界の見え方をしているんじゃないか。当事者にならなければ見えなかった景色。健全な人間とこっち側の人間の間にはものすごく深い溝があると思う。健全な人が精一杯こちらを思ってかけてくれた言葉、例えば「過去を振り返るな」「みんなつらいことはある」「親に感謝しなさい」「(自分がされて嫌なこと、無防備なセックス等を)きちんと断れなかったあなたが悪い」等の言葉で二次的に傷つくこともある。
 結局、当事者としての私が伝えたいのは、トラウマについてうちあける時は、人を選んで、時期を見て、大切に慎重に話していってほしいということ。大変な旅になるとは思うけど、自分の理解者を見つけるまで諦めないでほしいということ。

最後に

 世の中では誤解されているが、ACは自分の病状を親とか誰かのせいにしている集団ではなく、ACという1つの自己理解をしたことを通し、誰かのせいにするとか自分を責め続けるという次元を超えて、回復に向けて一日一日を実践している人達だと、私は思った。
 私はある時期、傷つけられたし傷つけたが、誰も嫌いではない。人と人の交差点で色々な濃い出来事があっただけ。被害と加害は連続性のある表裏一体のものだと思うから、DV加害者のことも、加害者というふうにだけは思っていない。私だって寂しさによって交際し相手を利用したという意味で加害者だから。私の人生に濃く関わってくれた人、ありがとう。そして、今悩み苦しんでいてこの文章を見つけ出し読んでくれた人のことを大切な仲間だと思っています。

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