肩書きなんて捨てて/日記

肩書きなんて捨ててしまえ。
したいことをとことんしたらいい。
自分の人生は自分だけのものなんだから。

なんて綺麗事をよくいうけど、わたしにはできない。どうしても第0印象は気になってしまうし、ことばは心であるから慎重にいかなければならないし、するべき気遣いはたくさんある。
でも,そういうことじゃない、と思うことも多くある。
幾つもの問題や課題は、一種の「肩書き」で起こっているとぼくは思う。
これが厄介で。だいぶ困ったやつである。
全然いうことは聞かないし、むしろ遊ばれているかのような感覚で、よく振り回される。
この、肩書きの有無でしたいことができたりできなかったり、時には価値観が大きく変動したりする。
一度認識してしまうと、なかなか消えられない潜在意識のようなものがある。

今日は、大好きなサムスミスさんの楽曲を聴く機会があった。
ぼくの師匠的存在として「かっこいい!」という存在として「彼は同性愛者であることをカミングアウトしている」と友人に話すと、そんなのが当たり前ではない友人からこんな言葉が出た。

「彼の楽曲を知るにはゲイであるという側面を知っておくべきなのか」

たしかに、知らなくてもいい。さらには深掘りとして彼を知ったらいい。なので、友人の言ったことが一つの問題として問われていたら、正解とまるをつけることになる。
しかし、今回言いたいのは「性別もあなたを知る上での大事な情報だよ」ということではない。
時には邪魔者として、一般的な性別ではない性別(例えば、LGBTなど)が存在してしまう場合がある。

ぼくは武勇伝のような感覚で、彼のかっこいいところを知って欲しいと言ったつもりでも、性別というところが邪魔して、
「この人はゲイだから」
「この人はトランスジェンダーであるから」
のような、〇〇だからと頭の中で勝手に作品へのイメージや、条件をつけてしまうことにもなる。
ぼくにとっては「ゲイだからこんな歌詞を書けるのか」というつもりで発したわけでなくとも、多数派ではないものが身近ではない人からすると「ゲイだからこんな歌詞が書けるんだ」と捉えてしまう原因になりかねない。
それだけは避けたくて、その後友人には「かっこいいんだよ」と、自分の気持ちを勢いで伝えてしまった。
まるで、性別のカミングアウトを無かったことにするかのように。

ぼくも、性別だったり、考えていることを問われて答えにくい場合、社会的常識の方へ方へと逃げてしまう。本当は発することで、意識を変えていけるいいツールなのかもしれないが、ぼくの特性の一つとして性別や思考を振り翳したくない。

昨今、同性婚についての話題が多く取り上げられているが、同性婚に対して問題があると発している行動も「自分を大きく見せるために、他者を利用する行為」確か取れない。
社会がとか、国がとか、もちろん大切な要素ではあるが、良いのか悪いのか、一つや二つで変わるような社会でもない。
だったら、反対にゆるく考えて「どうせ変わらないんだったら、自分の好きな表現で自己表現をしたっていい」と、“どうせ”をうまく利用してもいいような気がする。

ぼくにはまだ勇気が出なかった今日だったけど、当たり前のように発して、当たり前のように受け取り合う(認め合う)世の中の流れになればいいと思う。

性別という肩書きで人を見る目が変わり、
職業という肩書きで働いて完成したものへの評価が変わり、
肌の色や見た目でその人に対する態度や思いが無意識に変化してしまう。
それが良い方に転ぶか、悪い方に転ぶか。
肩書きなんていらないと思うこともある一方で、やはりないと判断はしにくいので、生きるのが楽ではないなという思考で葛藤しつつある。
肩書きなんて見ずに幸せになる場所や空間が少しでも増えたらうれしい。

どうか。

おわり

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