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月は誰のもの?

きょうの月はあなたの親指の爪に似ているわ。

江國香織さんの『ウエハースの椅子』より

この一説を読んで、自分の中の月を失ったと言った。その人は私の憧れる人。その人がどうしてそう思ったのかを知りたくて、『ウエハースの椅子』を読んだ。

でも、わからなかった。

月は誰のものでもないし、主人公の恋人の爪でもない。ましてや、私のものとも思っていない。

その人にとって、月は救いだったのだろう。真夜中に自分だけを照らしてくれる光。それは、すこしわかる気がする。

でも、他の人が月を何に例えたとしても、自分にとっての月の大きさも、関係性も変わらない。


同じ本を読んでも、感想は人によって違う。少しでも近づきたいと思って、あこがれの人の価値観に触れようとしても、なんだかどんどん離れていっている気がする。

憧れの人にはその人の孤独があるし、それはどう頑張っても知ることはできない。

言葉なんて役に立たない。言葉を使って物を考えようとすると、いつも結局堂々巡りをしてしまう。

江國香織さんの『ウエハースの椅子』より

憧れ人は文字や音声で、気持ちや考えと伝えてくれる。でも、言葉にするだけで、もうそれは記号でしかないのだろう。自分がモヤモヤしているときに、何かを考えようとしても、やっぱり上手くはいかない。

言葉にした時点で、自分が感じているものを100%表したとは言えないからだ。

コミュニケーションは大切だというけれど、完璧なコミュニケーションは存在しない。表情や身振り手振りなどの非言語的コミュニケーションはもちろん、自分の気持ちを言葉に表す時点で完ぺきではないから、上手く伝わることの方が難しい。

憧れの人や好きな人、長年かかわりあっている人ですら、誤解は生まれる。でも、私たちは言葉で繋がるしかないのだろう。

だからこそ、伝えようとする努力や受け取ろうとする姿勢は忘れたくないし、なぜ相手がその言葉を使ったのか、そう感じたのかは考え続けなければならない。

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