神隠し
私はある人から相談を受けた。相談に乗ることなど滅多にない。これが記念すべき初めてではないだろうか。
その人とは大して親しいわけでもない。お互いのことはあまり知らない。
霧雨の中、彼は傘もささずに歩いてやってきた。別段、重い足取りというわけではないが、その目には何も映っていなかった。
「僕はいつ間違えてしまったと思いますか。」
最初に出たその質問は、何よりも切実に彼の苦しみを表していた。その思いが単なる人間にありきたりな愚かな後悔などではないことは、誰の目にも明らかだった。
私は思わず口を挟んでしまった。
「今までどんな半生を送ってきたんだい?」
そして慌てて付け加えた。
「あ、いや、別に言いたくなければ言わなくてもいいんだけれども。」
彼はびくりと肩を揺らした。少しの逡巡を見せた後、彼は思い切ったように語り出した。
彼の口から紡がれたのは、誰が聞いても不幸の連続と思うような悲惨な半生だった。赤子の時、親に捨てられ、施設で虐待されて育った彼は、小学校に上がると同時にとある夫婦の養子としてもらい受けられる。そこから先は3歳上のそこの家の子どもの召使のような生活を強要され、食事や衣服はその子どもに下げ渡されたもの。自分で行動する自由などなかった。もちろん、学校にも行かせてもらえない。
そんな地獄の日々を耐え抜いてようやっと成人し、半ば逃げるように家を出た彼は、地方の中小企業に就職する。しかし待っていたのは、パワハラの温床とも言えるようなブラック企業での、怒鳴られながら残業する日々だった。その中でたった1人だけ、彼を庇ってくれた女性の先輩がいた。人の優しさに触れた経験のない彼は先輩の人柄に惚れ、程なくして2人は交際を始める。仕事の辛さから逃げるようにして、彼は先輩に依存していく。
「でも、騙されていたんです。先輩は僕の全財産を奪って逃げていきました。会社もクビを言い渡されました。僕は死ぬしかないのでしょうか。」
全財産と職を失って最初に来るのが公的な機関ではなく私のところだなんて、それほどに彼は思考を閉ざされてしまったのだろうか。いや、そんなことはどうでもいいか。
相談内容はとんでもなく重たかったが、私は嬉しかった。初めて自分の仕事として、ではなく心の奥底からどうにかしてやりたいと思った。
彼の目の奥をしっかりと視る。彼の最初の質問に答えるために。しかし、間違いなど見当たらない。彼はその優しさと真面目さから、悪に騙され、搾取され続けてきただけだった。そして、このままであればそれはこの先も変わらない。
「君は間違いなど犯していない。でも、これからも似たような人生が待っているよ。」
「僕の何が悪いんでしょうか。どこを変えればいいんですか?」
「強いて言うなら優しすぎるところさ。でもそれは美徳だ。変える必要はないよ。」
目の前の顔は困ったように歪む。こんな素晴らしい人材を解雇した会社はどこの馬鹿が経営しているのだろうな、などと考えてしまい、自身の人間らしさにため息が出た。
「なぜ君は私に『相談』してきたんだい?他の選択肢もあっただろうに。」
「……?あなたなら答えを知っていると思ったからです。」
さも当たり前かのように彼は答える。全てを信用しすぎるらしい。いい人材だ。少しこちらに好都合なように細工するくらい許されるだろう。私にはそれくらいの権限がある。彼を地獄に落としながらいいように利用してきた奴らとは一緒にしないでほしい。これは全て彼のためだ。
「提案だ。職がないんだろう?君、ここで働かないかい?ここなら誰にも搾取などされない。」
「え?でもここは……」
「私の下で働くのは嫌か?別に強要はしないよ。ただ、君がこの先を生きるなら、最善な選択だよ。ここは現代稀に見る正真正銘のホワイト企業さ。」
辺りを霧が立ち込める。くらりとする甘い香りが彼を襲う。
「あなたがそう言うのであれば……。」
「その言葉、了承と受け取ろう。」
私は彼を豪奢な部屋に呼びつけた。それ以来、現世で彼の姿を見たものはいない。
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