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残すべき物語

私は広島生まれの広島育ち!
よく思うことがある。

原爆ドームは残すべきものか・・・。

未来へ戦争のない時代へと幼い頃から、
広島市は7月29日、原爆投下時刻の午前8時15分に合わせ黙祷をおこなう。
目にみても、とても怖い恐怖心のある一年に一度の風習だ。
小学生の頃は、原爆に関係のある
『火垂るの墓』『はだしのゲン』など、映像も授業である。
記念館に行き、作文や絵も描くこともあった。
幼い頃から戦争と自衛隊が身近にある環境で育った私には世界はとても恐ろしく島からは出られなかった。
最近では授業では、映像などみる環境は無くなってきた。
しかし、私は思う。
歴史ある建物を残す事は広島の経済にとっても、歴史、平和な世界。希望をもたらす象徴でもあるが、残してはいけない形もあるのではないかと思う。

今更だが、原爆は原爆ドームとは

(当時の広島県産業奨励館)から南東約160メートル、高度約600メートルの位置で炸裂、このときの爆風は1平方メートルあたり35トンの圧力を持ち、風速は秒速440メートルという凄まじいものでした。同館は激しい爆風と熱線を浴びて、火を噴きだして燃え上がったといいます。爆風がほとんど上から真っ直ぐ下に働いたため、奇跡的に厚い側面の壁や鉄骨のドーム部分などは倒壊を免れました。しかし、建物内にいた人は全員即死、建物内部は熱線による火災で全焼という惨事を招きました。鉄骨部がむき出しとなったドームは、いつからか「原爆ドーム」と呼ばれるようになったという。

私だけだろうか
もっと明るい未来につながる歴史を作れたら

今日も原爆ドームを見て思う

もう、10年前の話だが、
婚約者と最後にデートに行った場所が原爆ドームだ。
34歳でステージ4の癌を発症し半年後には息を引き取った。
原爆ドームデート当日とても暖かな日差しが照り、
院内や屋上でのデートしか出来なかったが、
外出許可を取り
私はぶーんぶーんと車椅子を押し、
久々のデート有難う!と
彼は言葉を発する事は難しかったが、
笑顔をたえさず、微笑んでいた。
きっと辛かったと思う。体調も寝たきりだったが、たった30分、幸せなひと時であった。
いや、彼の心からの優しさだ。

彼にはガンの告知はしていたが、末期とは伝えておらず、私は沢山の嘘をついた。
仕事中でもおめでとうモードを崩せず、言えず、
毎日通い、会えない日は、彼は窓際、私は駐車場で小声で電話。
バレンタインの日に仕事で遅くなり、病院に隠れて侵入したりもした!今思えばストーカーや病院に対して迷惑行為!ただのやばいやつだ!
幸運なことに、看護師さんも医師も笑いながらそんな私達を見守ってくれていた。
いつも笑って欲しくて、変な事ばかりしていた。
でも、彼はきっとその気持ちがわかっていて、笑ってくれていたのだと思う。
時が来た
彼は永眠した。
そこから私は後悔しか無く彼がやりたかった仕事、やりたかった経験を追い求めてきた。
今思えば生きる希望が持てずにいた。

原爆ドームを見るたびに、自分の不甲斐なさと嘘をついて苦しめたのでないかと、

帰りたいと言った彼に、落ち着いたらね!
俺死ぬのかな?と言われた時に、大丈夫!

私は後悔を送る人生を送った。
きっと、笑われるだろう、、、
彼は死を覚悟した瞬間に
LINEで『必ず迎えに行くから、待っていて』
と、連絡が来たのだ。
スマホを持つこともままならない彼からの、
最初で最後のやりとりとなった。
待つことの辛さ、迎えが来ない辛さ、寂しさ。

会えた時には彼は・・・
本当にあるんだなと思うが、繋がらない電話に毎日かけた。話せなくても良い、迎えなんか来なくても良い、教えて欲しかった
私の事必要ですか?
現実を受け止めれないまま時は流れた。

この想いは消えることのない、深い深い私の心の闇となった。
だが、しかし、
それは、必然ではないか
彼との出会いが(この話はまたいつか)

雑談を挟んでしまったが、
私にとっても思い出の場でもある
私にとっても財産である原爆ドーム

子供たちの手で

どうか色鮮やかに塗りつぶし平和な世界、未来へ変化しつなげて欲しい。

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