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【SS】あの痕が消えるまで(5901文字)


「首、赤いよ」
 Nintendo Switchの画面から目を離さずにショータローが言った。
「え、かぶれたのかな。最近おかしいくらいあっちーし、あせもだったりして。やだなー」
 あたし、キミコは内心ちょっと焦ってる。後ろめたいことがある人間は口数が多くなるというのは本当みたいだ。あたしとショータローは普段同じ部屋にいても無言でおのおの気ままに過ごしていることが多い。だから今日はあたしの口数の多さが余計に目立つ。
「そう」
 ショータローがいつもと寸分も変わらぬ低い声で言う。一瞬だけ横目であたしの首元を見たあと、すぐにゲームの画面に目線を戻した。
 そう、ってなんだよ。可愛い彼女の首がかぶれてんだよ? もっと心配するとかさ。もしくは、浮気を疑うとかさ。
 首の痕は確かにキスマークだ。ショータローは意外に目ざとい。
 会社の後輩とお酒を飲んでたら酔いが回ったのか楽しくてたまらなくなって、一緒に飲んでくれてる後輩に対する親愛の情が高まって。別れ際、あたしからマスク越しにキスをした。そしたら同じように酔ってた後輩が首元に口を近づけてきて、上目遣いで「つけちゃいました」って可愛い顔して言うの。あざと可愛い奴だなって思った。うん、それだけ。大した事じゃないくない? あたし、貞操観念ってやつが薄いのかもしれない。だってキスなんて減るもんじゃないし、愛情表現は皆でしあったほうが幸せでしょ。そう思うけど、誤魔化したってことはどこか悪いって思ってる部分があるんだろうね。 
 ショータローは自分を見つめるあたしの視線になんて全く気付かない様子だ。右手は赤の、左手は青のコントローラーに添えられている。無機質な操作音が沈黙で満ちたワンルームに響いて耳に障る。
 少し前までは、右手にはいつもお気に入りのピックが収まっていて、左手は弦の上で踊っていた。あたしの耳に響いていたのは、ショータローのまっすぐな歌声だった。

 最初にショータローを見たとき、彼は駅前の広場の隅っこに胡坐で座り込んで、ぼさぼさの髪の毛で歌ってた。首元がゆったりと開いたオーバーサイズのTシャツからはスキニージーンズを履いた細めの足がすらりと伸びていて、少しだけ中性的な雰囲気だった。その見た目に反して歌声はハスキーなかすれ声で、この人は特定の女性、例えばあたしみたいなのを虜にするタイプだって一目で分かった。
 その時はそのまま通り過ぎたけど、どうやら18時半がショータローのショータイムだったみたいで――駄洒落じゃないよ――あたしが仕事終わりに最寄り駅に着くのも18時半。毎日毎日、ショータローの歌声が自然と耳に入るようになった。仕事でふがいないミスをしたり、上手に立ち回れなかったりしたとき、疲れ切ったヘトヘトの心にショータローの歌声は沁みた。
 彼の歌を聴いていると、どうしてもおでんが食べたくなった。道路に面した駅前のおでん屋さんは半分外みたいな店構えだから、そこからでもショータローの歌声がよく聞こえる。ふらっとお店に入って、出汁が染みたアツアツの大根を食べながら歌を聴く。そして日本酒をグビリ。大抵は熱燗。それだけで、どんなに疲れていても「明日もやったるかー!」って気分になれたんだ。
 いつのまにか、あたしは18時半になると、ショータローの前にしゃがみ込んで歌を聴くようになってた。たったひとりだけのファン。 
 お互い認識はしてるけど話すような関係性じゃなかった。たまにチップとして安月給からひねり出した1000円札を開かれたギターケースに入れて帰ることもあった。
 あれは何日目の夜だったかな。その日予定していた曲をすべて歌い終えた19時頃、ショータローが初めてしっかりあたしの目を見て言ったの。
「お姉さん、俺の曲どうですか?」って。
「え、最高」
 語彙力がないからそれしか言えなかったけど、その瞬間、ショータローの頬が一気に赤く染まって、瞳の表面はピンと水が張ったみたいに潤んだ。ああ、ショータローの歌に対する気持ちがちゃんと伝わったんだって分かってほっとした。
「よかったらうちに来なよ。好きなだけ曲書いてていいからさ」
 ショータローはボサボサの頭をしていたけど髪形に気を遣っていないだけで身なりは綺麗だったし、生活していくためのお金はあるように見えた。だから、売れないミュージシャンを家に置いてあげようとかそんな傲慢な気持ちは全くなくて。彼が音楽に夢中な姿を近くで見てたいって一心から思わず出た言葉だった。
 だから、ショータローが「いこっかな」と言って、その二日後に本当に家まで着いてきたときは正直驚いた。
「俺、ヒモになるつもりはないから。一応働いてるし。あとこういうのはちゃんとしたいんだけど、俺ら付き合うってことでいいよね?」
 ショータローは意外にも、あたしと違ってちゃんとした男だった。
「なんか照れるね。よろしく。あたしキミコ」
「ショータローです。よろしく」
 可笑しいよね。付き合うことになったその日、やっとお互いの名前を教え合ったなんて。ショータローはあたし自身をというよりかは、あたしが自分を見つめる熱い目に惹かれたようだった。それでも全然かまわない。ショータローが輝いてくれてたら、あたしは一生熱い目線を送ってあげられると思ってたから。

 そんなあたしは今、どんな目をしているんだろう。
「ショータロー」
「ん」
「最近曲はつくってんの?」
「いや、あんまり」
「そっか。ま、いーや! 明日も仕事だからもう寝るね。おやすみ」
 無気力な返答にイライラしてしまって、部屋を出るときショータローがまだいるのに電気を消してやった。振り向きざま、暗闇でSwitchの画面からの光に照らされて浮かび上がったショータローの顔が見えた。彼の目はゲームに集中しているようでいて、なにも映っていないただの空洞に思えた。ショータローは普段、どんな顔をしていたんだっけ。
 音楽しか頭にない、そんなショータローが好きだったのにな。

「しばらく帰らない」
 そう言ってショータローが出て行ったのは、微妙な雰囲気になったその翌朝のことだった。
「え、なんで?」
「キミコが思ってるより俺は平凡なの。彼女がもし浮気してたらって考えたら夜も眠れなくなる。それ、キスマークだろ? 俺だってそこまで馬鹿じゃないよ」
「確かにそうだけど、これは違うっていうか。そういうんじゃない」
 ボストンバック一つ分に小さくまとまった荷物とギターケースを肩に掛けたショータローがもう帰ってこないような気がして、あたしは焦っていた。もっと伝えるべき言葉があるはずなのに、肝心なところでいつも何も言えなくなってしまう。
 途方に暮れるあたしを前に、ショータローは困ったように笑った。この優しい男をあたしは失うのかもしれない。
「......もういいよ。少し頭冷やしたいだけだから。落ち着いたら連絡する」

「――って言われてから一週間。音沙汰なし。やっぱりバンドマンと付き合うのは無理だったわ。うける」
 駅前の安居酒屋で高校時代からの付き合いである美月に事の顛末を話す。高校卒業後、あたしは地元の文具メーカーの事務職として働き始めた。電話対応とかデータ入力は正直苦手だけど、優しい周りの人たちに支えられてなんとか続けられている。美月はメイクの専門学校を出た後化粧品メーカーに就職し、今はターミナル駅直結の百貨店で美容部員として働いている。お互いどれだけ仕事が忙しくても、月に一回は集まって近況報告やらくだらない話やらをする仲だ。
 なぜかすごく喉が渇いて、お酒を煽る手が止まらない。ホッピーが入ったジョッキがまた空になってしまった。
「すみませーん、ナカください!」
 厨房から「あいよー!」という威勢のよい返事が返される。
「キミコ飲みすぎ。そのくらいにしといたら。目、赤いよ」
 美月があたしの目を心配そうに覗き込む。くそう、ショータローよりよっぽど恋人っぽい。だけど大好きな美月と過ごしている今も、あいつのことが頭から離れないから重症だ。
「厳しいこと言うかもだけど、まあキミコが悪いよね」
「ぐぬぬ、やっぱり?」
「私はキミコの自由な考え方が好きだけどね。それに救われてきたし。でもショータローくんが大事なんでしょ。だったら相手が譲れない部分は尊重してあげたら? 耐えられなくなったら私のとこにおいでよ。私はそのままのキミコを受け入れるからさ......って気障か」
「美月~! 大好き。あたしの唯一無二の大親友よ!」
「親友、かあ。嬉しいこと言ってくれるね。伝えようか迷ってたけど、ここ来るとき隣駅の前でショータローくんが歌ってるの見たよ。流石にいつもの場所で歌うのは気まずかったんだろうね」
「......ショータロー歌ってるの」
 ショータローが歌っている姿をもうずっと見ていなかった気がする。いつからだっけ。あたしと一緒に住み始めたあたりから? ショータローの傍にいるべきなのはあたしじゃないのかもしれない。でも。
「彼は彼なりに思うところがあるんでしょうよ。行ってみたら? まだいるかは分かんないけど」
「ほんとごめん、行ってくる。美月、いつもありがとね」
 グラスに半分残った飲みかけのお酒を美月に託して、三千円をテーブルに置く。速足で居酒屋の出口へと向かうあたしの後ろで「頑張れ」と美月が呟いた。

 隣駅までの道を走った。電車を使おうか迷ったけど、ショータローのところまで自分の足で走っていきたい気分だった。スニーカーを履いてきてよかった。ヒールを脱ぎ捨てて走るほうがドラマチックかもしれないけど。会って何を言うんだろう。分からない。分からないけど行かなければ。気は重いが足は飛べそうに軽い。足は口ほどにものを言う、ってか。
 JRの高架沿いを走り始めて10分ほど経った頃、やっと隣駅が見えてきた。信じられないほど息が切れている。もう学生時代とは違うんだと、否が応でも年月の経過を実感してしまう。
 駅の入り口横の少し奥まった空間に数人が集まっているのが見える。若いカップルの二人組と、仕事帰りと思われる中年男性がひとり。そこはあたしの特等席だったのにと少し悔しい。中心にはいつもの格好で、ギターを膝に乗せ胡坐をかいているショータローが、いた。
 15メートルほど離れたところで止まる。前に立つ他の聴衆のおかげで、ショータローからはあたしは見えないはずだ。この位置でも十分に声は聞こえる。なんとか間に合ったみたいだ。深く息を吐いて乱れた呼吸を整える。
「――最後は新曲です。聞いてください。『あの痕が消えるまで』」
 ショータローの声だ。たった一週間会っていなかっただけなのに懐かしさに目が潤む。タイトルを聞いてあたしの歌だとすぐに分かった。どんな歌詞なのかを知る怖さよりも、あたしのことを歌ってくれるという事実に喜んでしまう。そんな自分の浅ましさにうんざりする。あたしはとことん、ショータローのファンみたいだ。
"馬鹿にすんなよ"
 イントロはなかった。いきなり始まった曲の序盤から、普段のショータローからは想像もできないようなハイトーンボイスが響いた。泣いているようでいて、何かを吹っ切ったようなそんな歌声だった。
 盛り上がりが最高潮を迎えたところで曲調は一転。絞り出すような声とバラード調のメロディが流れる。
"あの痕が消えるまであなたは僕の恋人だ"
"あの痕が消えたならあなたを自由にしてあげよう"
 一瞬で駅前の喧騒から遠く離れたところに自分が飛ばされた。そんな感覚に陥った。ショータローの歌声以外何も聞こえない空間にあたしはいる。
 ショータロー、やっぱりいい曲書くじゃん。馬鹿な恋人のことをそんな風に歌えるあんた、サイコーに格好いいよ。身勝手に感傷に浸ってるあたしはサイテーで格好悪いね。
 最後の曲が終わると、数人の聴衆たちは散り散りに去っていった。あたしは――どうしてもショータローに話しかけることが出来なかった。曲が終わればすぐにショータローの目の前に行って、いつもみたいにごめんねって謝るつもりだったのに。植木の陰に隠れてショータローの様子を盗み見ることしかできない。
「馬鹿にすんなよ」という歌詞と苦しそうなショータローの顔が胸を貫いた。馬鹿になんてしていない。ただ、あたしの考え方はいつも普通と少しずれているんだ。自分なりに真っ当に生きてきたつもりでも、目の前の人たちを大切にしてきたつもりでも、なぜ彼等が哀しい顔をしているのか理解できないことがこれまで何度もあった。
 美月はそんなあたしもまるごと受け入れてくれる。けど普通は。ショータローは多分、あたしといることで傷ついてしまうんじゃないだろうか。そんな思いが頭をよぎる。
 悩んでいるうちに、ショータローはさっさとギターを片づけて立ち去ってしまった。
 残されたあたしはスマホのインカメで首元を映す。後輩につけられたキスマークはもう周りの皮膚と判別できないほど薄くなっていて、ショータローとの別れが迫っていることを教えてくれた。どうか消えないでほしい。画面に映るあたしの目は、確かに尋常じゃないくらい赤かった。

「......お姉さん、俺の曲どうですか?」
「最高にイイ。ビールが進むね」
 一か月後、ギターを鳴らすショータローの前にまた、あたしはいた。右手にビール。つまみは勿論、ショータローの歌。
「あの痕」は完全に消えてしまった。今のあたしは彼女でもなんでもない。ただ、ひとりの「お姉さん」として、ショータローの一番のファンとして、彼の前に居座っている。難しいことを考えても無駄だった。あたしはやっぱり図太くて、そんな自分を変えられないみたい。
「奔放さが増したね。自由にしてあげるってこういうことじゃなかったんだけどな......」
 ボソボソと呟くショータローを尻目に、あたしはグイッとビールを煽る。さあ、勇気をだせキミコ。
「お兄さん、よかったらうちにこない? ショータローの大切なもの、あたしも大切にできるよう頑張ってみる。だからもう一回だけ、チャンスをください」
「......めっちゃクサいこと言うけどさ、俺の中からキミコの痕が消えないんだよね。だからまだ、キミコは俺の恋人」
「おま、それ、クッセー!!!」
 なんだか涙が止まらなくて、照れ隠しにショータローの背中をバンバンと叩いた。手のひらからじんわり伝わる熱でまた泣けてくる。
 顔を顰めて「いてーよ」と呟くショータローが愛おしい。
 もう二度と、目の前のこの人を悲しませないと誓いつつ、ショータローの首元にそっと口を近づけた。

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