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「本物」の料理ってなんだろう|宮嶋 勲『10皿でわかるイタリア料理』

汗ばむ肌にスパイスの香りがまとわりつくバンコクの大通りで、整然とお寿司が並べられた屋台を見かけることがある。ごはんの上にお刺身やら卵やらが乗ったそれは、明らかにお寿司に見えるのだけど、でもなぜか「本物」のお寿司ではないような気がしてしまうから不思議だ。

お寿司を「本物」のお寿司たらしめる要素とはなんだろう、ということを、随分長い間考えている。「本物」なんて主観にすぎないから答えなんてないのだけど、このことについて考えている時間は楽しい。

名店、と呼ばれるお寿司屋さんで至福の時間を過ごす時、指先でつまんでそっと口に運ぶそのお寿司を「本物」だとする。お魚の仕入れについて聞いたり、お米や酢への尋常ならざるこだわりを聞いたり、その合間合間の手さばきに見とれながら舌鼓を打つ数刻は、いかにも「本物」のお寿司を堪能するためのひとときだ。

町のお寿司屋さんで、さっと出される握りを慌ただしく食べる昼下がり。仕事帰りに立ち寄った回転寿司屋さんで、一人黙々とお箸を動かす夜。私にとってはこれらも、「本物」のお寿司を食べる時間。

スーパーで柵を買ってきて、慣れない手付きで切り分ける。手のひらにご飯粒をたくさんくっつけながら、いびつな形に酢飯を握る。YouTubeを見ながら本手返しの真似事をして、少しでも触れたら崩壊してしまいそうな「酢飯の刺身乗せ」がお皿に並んでいく。これは、「本物」のお寿司なのだろうか? さて、どうだろう。

カリフォルニアロールは、海苔が苦手なアメリカ人のために考案されたと何かで読んだ。回転寿司屋さんなんかでもよく見るけれど、これは「本物」のお寿司っぽくない気がする。なぜだろう。

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思うに、料理にはその一品を「本物」たらしめる必須の要素があって、それは見た目だけでは理解できない「料理の魂」みたいな部分なので、相当深く対象を理解しないと再現できないのではないか。パッと見の構成を真似するだけでは、欠かしてはならないものが抜けてしまったり、魂に反する要素が加わってしまったりする。国をまたぐと、魂の理解はより難しくなる。魂の理解はきっと、風土や文化の理解と切り離せないから。

宮嶋さんの『10皿でわかるイタリア料理』を読んでそんなことを思ったのは、「カルボナーラ・スパゲッティ」の章が面白かったから。宮嶋さんはイタリアの食やワインに造詣が深い方で、1年の3分の1をイタリアで過ごされているという。きっとイタリア料理の魂にとても近いところにいらっしゃるんじゃないかと思う。

『10皿でわかるイタリア料理』は、イタリアを代表する10皿の料理を、イタリアの歴史や国民性についての話も面白おかしく交えながら深く解説している本だ。「カルボナーラ・スパゲッティ」の章にはこう書いてある。

オーソドックスな作り方を紹介すると、ボウルに入れた生卵にすりおろしたペコリーノ・ロマーノ(羊乳チーズ)を入れてよく混ぜ、そこにフライパンで火を通したパンチェッタを入れておき、そこに茹でたてのパスタを放り込んで、パスタの余熱でソースに火を通しながら絡めるというだけのものである。
外国でよく代用されるベーコンは邪道で論議にも値しないというのが「カルボナーラ通」の見解である。
イタリア北部や外国では生クリームを使ってベトベトに仕上げたカルボナーラをよく見るが、あれはすでに別の料理である。生クリームは絶対にNGという点についてはすべてのカルボナーラ・マニアの意見は一致している。
つくり方のところで述べたが、パスタを茹で上げた余熱で卵に火を通して、とろりと仕上げるのであって、グアンチャーレ(またはパンチェッタ)を炒めたフライパンや鍋に、卵とパスタを放り込んでは絶対に駄目である。卵が固まってスクランブル・エッグのようになったのでは、もはやカルボナーラではない。北イタリアや外国では卵とベーコンと玉ねぎを炒めたスパゲッティをカルボナーラと称している場合もあるが、論外である。

日本で夜ごはんにカルボナーラを作ろうと思った場合、グアンチャーレやパンチェッタはなかなか手に入らない。それならベーコンでいいか、となる。その時、カルボナーラの魂の一部がひっそりと失われる。

キッチンにあまっている食材を使い切ろうと、玉ねぎをわさっと投入する。入れ替わるようにして、カルボナーラの魂が抜けていく。カルボナーラに強い思い入れがある日本人はほとんどいないだろうから、家庭の状況に合わせてこの料理はどんどん姿を変えていく。それを「カルボナーラよ」と言われて育った私にとっては、もはやベーコンと生クリームが入ったそのスパゲッティが「本物」のカルボナーラだ。

「本物」を追求しなければいけないとか、そういうことを思っているわけではない。時代や場所に応じて、料理はめまぐるしく変化していく。お寿司だって、もとを辿れば魚と塩とごはんの発酵食品で、握り寿司の形になってからの歴史は浅い。

ただ、人が特定の料理を「本物」だと感じる、その要素にとても興味がある。その要素、つまり魂を知ることで、その料理が根付いた場所のアイデンティティを深く理解できるような気がして。「食べて美味しい」以上の楽しみを私が食から感じられるのは、そんな瞬間だ。

日本でも海外でも、一つひとつの料理の魂を言葉にするために、言葉にできるまで、ひたすらにがむしゃらに食べ続けたいと思っている。


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