ガチオタが『トイ・ストーリー4』を見てくる。(前篇)
今週末から、いよいよディズニー/ピクサー最新作『トイ・ストーリー4』が公開される。
『トイ・ストーリー3』の公開から9年。
今作では、ボニーの家に引き取られたウッディたちのその後が描かれる。
私の『トイ・ストーリー』との出会いは、遡ること23年前。1作目が劇場公開された後のことだ。
当時1歳になるかならないか…の私は、ある日、母とショッピングに出かけていた。
おやつ買ってくれないかな~なんて思いながら、指をしゃぶったり母に抱っこしてもらったりして暇をつぶしていると、突然「あんたは俺の相棒だぜ!」という声が聞こえてきた。
顔を上げてみると、そこはビデオ売り場。発売されたばかりの『トイ・ストーリー』のビデオ映像が映し出されていたのだ。
"人間のいない間におもちゃが動いている"という奇妙な設定に心を奪われた。
自分のことをおもちゃだと思っていない新入りのバズと、そんな新入りがチヤホヤされることに嫉妬を覚えていくウッディの人間らしさ、2人を取り囲む個性豊かな仲間たち。目を離さずにはいられなかった。
それからはもう、おやつなんてそっちのけ。このビデオを手に入れたくて仕方がなくなってしまった。
「行くよー!」「やーだー!これみるの!」そんなやりとりを何回したのだろう。長い戦いを繰り広げた結果、ようやく母が折れてビデオを持ち帰ることに成功したのだ。
…と、まぁ当然ながら自分では一切覚えていないので、母から聞いた「売り場から動かずに駄々をこねた」というところ以外は私の想像でしかないのだが、これが私の"トイ・ストーリー・ライフ"のはじまりだった。
1歳の私が、ストーリーをどこまで理解できていたのかは分からない。
だけど、きっと実際に存在しているかのようなフルCGの鮮明さや、キャラクターたちのコミカルさに強く魅かれたのだと思う。
アメリカで公開されたのが95年11月、私が生まれたのも95年11月で"同い年"であるところも、なんだか運命的なものを感じる。
それからは、毎年必ず誕生日には親が、クリスマスにはサンタが『トイ・ストーリー』のおもちゃをくれた。
ウッディやバズの足にはローマ字で自分の名前を記した。
4歳の時に公開された『トイ・ストーリー2』も、14歳の時に公開された『トイ・ストーリー3』も、映画館に観に行った。
『3』では、すっかり大人になってしまったアンディを振り向かせようとするおもちゃたちの健気な姿を見てから、最後の最後までずっと涙と鼻水が止まらなかった。
家にはブルーレイがあるが、もう何十回と見ているのに毎回新鮮に泣ける。
生まれてからずっと、この映画とともに成長してきた。
前置きが長くなってしまったが、そんないちファン・いちオタクとして公開前の現時点で『トイ・ストーリー4』について思っていることを書こうと思う。
私は正直、今の段階では楽しみ半分、不安も半分というところだ。
もちろん、見てからでないと何も言えないし分からないことばかりだが、鑑賞する前に、この煮え切らない気持ちをどうしても消化しておくべきだと思った。
今の時点で、混じり気なく純粋な気持ちで楽しみにしている人や、あれこれ難しいことは考えたくないという人は、ページを閉じてもらった方がいいかもしれない。
主観と偏見が満載なので、お見苦しい部分もあるかもしれないが、愛ゆえにと思ってご理解いただきたい。
ずっと見てきた、大好きな作品の続編。
嬉しいはずなのになぜ不安なのかというと、これまでの『1』~『3』とはまったくの別物になることはほぼ確実であるからだ。
その理由は主に4つある。
『トイ・ストーリー』は完結している
1つは、単純だが『トイ・ストーリー』は3部作で既に完結しているからだ。
『1』『2』ではまだ幼かったアンディが、『3』では大学生にまで成長していた。そんなアンディの新生活に伴い、おもちゃたちは誤って捨てられそうになったり、救いを求めた先でずさんな扱いを受けたりしながらも、危機を乗り越えて最後は無事にアンディのもとへ帰る。そして長年大切にされたおもちゃたちは、ボニーへと受け継がれた。
これ以上ない、完璧すぎると言っても過言ではないほど素晴らしい終わり方だった。
その後もいくつか短編が作られたが、あれだけ綺麗に終わってしまったら、『3』の続きを長編で作るのは不可能だろうと思っていた。
もしやるのなら『スター・ウォーズ』のように時系列を変えるしかないのでは、と。
ジョン・ラセターの降板
3作すべてのストーリー原案者であり、『1』『2』で監督を、『3』で製作総指揮を務め、その後の短編でも製作に深く関わってきた、いわば『トイ・ストーリー』の生みの親。
そんなジョン・ラセターのセクハラ報道は、あまりにも衝撃的だった。
『トイ・ストーリー4』の製作が発表されたとき、あんなに綺麗に終わったのに大丈夫なのだろうかと不安がよぎったが、「でも、きっとラセターなら素晴らしい『トイ・ストーリー』を作ってくれるだろう」という安心感があった。
それがこのようなことになり、結局ラセターと脚本家の計3人がプロジェクトを去ったのちにオリジナル脚本の4分の3が変更された。
セクハラ行為は決して許されることではないが、数々の名作を生み出してきたラセターは、ディズニーにとって、ピクサーにとって、そして『トイ・ストーリー』にとってなくてはならない人物だった。
クレジットにその名前がないのは、本当に本当に寂しい。
まさかのキャッチコピー
遊園地を見下ろすウッディとバズの後ろ姿は、過去3作のどのポスタービジュアルとも明らかに違うものだ。そしてそこに書かれ、映像の中でも強調されているこの言葉。
あなたはまだ 本当の「トイ・ストーリー」を知らない。
目に入ってからとてつもない違和感を抱くまでに、そう時間は掛からなかった。
たしかに、煽り文句としては最高だ。
このキャッチコピーを見て「これからが本当の『トイ・ストーリー』なのか!よし、観に行こう!」と思う人も、中にはいるかもしれない。
しかし、それならば、1作目の公開から24年もの間、私たちが見て、愛してきたものは一体なんだったのだろう。
『3』までが本当の『トイ・ストーリー』でなかったのだとしたら、ウッディたちがアンディと共に過ごした日々はなんだったのだろう。
「実は今までの話はすべてウッディの夢の中の出来事でした。チャンチャン♪」というオチなのだろうか。
先述したように、今回は監督が変わっていることもあって、これまでの彼らが作り上げてきたものを否定しているように聞こえてしまう。少なくとも私には。
このようなキャッチコピーは、「"『トイ・ストーリー』の続編"が見られることを楽しみにしている」人や、「『トイ・ストーリー』だから観に行こう」という人の出端をくじくことにもなりかねない。はっきり言ってマイナスでしかない。
だが、調べてみたところ、どうやらポスタービジュアルもこのキャッチコピーも、日本版だけのものらしい。なるほど、いつものパターンか…。
日本のプロモーション、ヘタすぎぃ!!
ボー・ピープの変貌
まさか、そのキャッチコピーを上回る衝撃があるとは思わなかった。
予告映像に映る、ボー・ピープの変わり果てた姿だ。
元々『トイ・ストーリー4』にボーが出るということは数年前から分かっていて、とても楽しみにしていた。
だが、ふたを開けてみるとそこにいたのは、みんなが知っているボー・ピープではなかった。
ピンク色のワンピースではなく、水色のパンツに紺色のマントをまとい、鋭い目つきで杖を振り回す姿に、開いた口が塞がらなかった。
そのとき頭に浮かんだのが、『シュガー・ラッシュ:オンライン』で歴代のプリンセスたちがカジュアルな服を着て、寝そべりながら談笑するシーン。
『シュガー・ラッシュ:オンライン』の感想記事に書いたとおり、あのときは無理矢理な"別人設定"で自分自身を納得させたわけだが、今回はそういうわけにもいかなそうだ。
『シュガー・ラッシュ:オンライン』のみならず、近年のディズニー作品は「自由に生きることの素晴らしさ」を強調し、「女らしさ・男らしさにとらわれない」というジェンダーフリーの考え方を前面に出す傾向が強くなっている。
時代に合わせて、性別や人種にとらわれないキャラクターが生み出されていくのはとても良いことだと思う。
だが一方で、長年変わらない形で愛されてきたキャラクターの"らしさ"を尊重するのも大事なことではないかとも思う。
ジェシーのようにおてんばなキャラクターもいれば、ボーのようにお淑やかなキャラクターもいる。それこそが多様性というものではないだろうか。
それに、ボーはお淑やかなだけではない。物腰は柔らかだが、実は芯が強くて、大胆さもある。
それはたとえパンツを履いたりマントをまとったりしていなくても、『1』『2』を見たことがある人なら誰もが知っているはずだ。
―――さて、ずいぶん長々ともやもやを垂れ流してしまったが、この4つを以ってしても、やはり楽しみであることに変わりはない。
映画館で席に座った瞬間からはすべての先入観を捨てて、大好きなキャラクターたちに会える100分間を思いきり満喫しようと思う。
鑑賞後には後篇として、実際に観てきた感想や、観る前の印象を踏まえてどうだったかなどを具体的に書こうと思うので、そちらもぜひよろしくお願いします。
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