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夜次元クジラは金魚鉢を飲む #6

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6. 金魚係


 三年二組は先に終わったらしく、波留が通り過ぎざまに隣の教室を見ると数人の生徒が残っているだけだった。三組のドアには「用具置き場」と書かれた紙が貼られているが、ガラス窓から覗き見る限り春休みに来たときと特に変わった様子はなく、金魚鉢もあの日と同じ棚に置かれている。

「この部屋はいい」と、夜次元クジラが言った。

「いいって、良いっていう意味? それとも嫌ってこと?」

 答えは返って来ない。

「入れってことか」

 波留はガラス窓の縁に手をかけてドアを引いたが、鍵がかかっているらしくガチッと音がするだけで開く気配はない。無駄だと思いながら取手に手をかけ何度か力を込めたけれど、やはり鈍い音がするだけだった。

「あ、伊足さんだ」

 聞き覚えのある声に振り返ると、槇村心が愛想よく手を振りながら駆け寄って来た。彼は波留のそばで立ち止まると、ポケットに手を突っ込んで得意気な顔で鍵を取り出す。

「伊足さん、もしかして金魚見に来た? 待って、すぐ開けるから」

「その鍵は?」

「これ? 森谷先生に金魚係命じられたんだ」

「ふうん。槇村君は森谷先生と仲いいんだ」

 馴れない手付きでカチャカチャと鍵と格闘していた彼は、「アッ」と顔をあげてはにかんだ笑みを波留に向けた。

「名前覚えてくれたんだ。シンでいいよ。みんなシンって呼ぶから」

 ふと海の香りが波留の鼻先を掠め、頭上に浮いていた夜次元クジラが興味深そうにギョロリと瞳を動かした。海というよりも潮とココナッツと汗の混じった匂いで、ザトウクジラが住むような海ではなく、夏のビーチのように人と陸と海が交わる場所を連想させる、海の街に住む人の匂い。

 カチャと鍵の開く音がし、シンは勢いよくドアを引いた。ポケットに鍵を突っ込むと、「どうぞ」と波留を我が城に招き入れるかのように先に立ち、まっすぐ金魚鉢のほうへ歩いて行く。

「本当は、俺に金魚係命じたのは森谷先生じゃないんだ。去年この三年三組だった人で、俺のサーフィン仲間。金魚はその人が去年夏祭りでとったんだって」

 シンは足元のバケツにつまずきかけて、「おっと」と脇に飛び退いた。水が張られたバケツには金魚用と書かれた紙がテープで貼られ、その横にもうひとつ小ぶりのバケツが置かれている。そっちにはザルやスポンジが突っ込んであり、金魚鉢の洗浄用具のようだった。

「伊足さん、暇だったら一緒に水替えする?」

 誘うように愛想笑いを浮かべるシンのそばを、黒い出目金が泳いでいた。波留がチラリと金魚鉢を確認すると、以前のように出目金は水草の陰にいて、シンの額のそばで尾ビレを振っているのは四次元出目金だ。波留は不思議に思いキョロキョロとあたりを見回した。

「あ、波留さんだ」

 タイミングよく背後から聞こえてきたのは森谷の声だった。出目金はやはりシンに誘われて体を離れたのではなく、森谷の対話者で間違いなさそうだった。今も森谷のそばへ行こうと小さな体を揺らして泳いでいる。

「シン君、お疲れさま。私も水替え手伝いたいんだけどちょっと手が空かないんだ」

「いいですよ。一人で大丈夫だし、もしかしたら伊足さんが手伝ってくれるかも」

「あ、それはいいね」森谷はパチンと胸の前で手を叩いた。

「僕、手伝うとは言ってないけど」

 波留が素っ気なく言うと森谷は気落ちした声で「そっかぁ」と演技過剰に肩を落とし、シンは「そっか」と意外にあっさり諦めたようだった。そのとき、金魚鉢を覗き込んでいた夜次元クジラが潮を吹いてシュルシュルと体を縮め、歓喜した声でひと鳴きすると、音もなく金魚鉢に飛び込んだ。金魚と一緒に泳ぐ夜次元クジラは、その小ささのせいか妙に愛らしい。どうやらクジラは水替えに付き合えと言いたいようだった。

「まあ、……ちょっとくらいなら手伝ってもいいよ」

「ほんと? サンキュ」

 シンの笑顔は麦わら帽子と虫取り網が似合いそうだ。

 夜次元クジラはエアポンプから吐き出される泡の中を気持ち良さそうに泳ぎ、興味津々の出目金は三次元の体に戻ると金魚のフンのようにクジラの後をついて泳いだ。赤い金魚は夜次元クジラが見えないのか、餌を求めるように水面でパクパクと口を動かしている。

「じゃあ、あとで職員室に鍵返しに行きます」

 シンが鍵をチャリチャリと手元で振ると、森谷は「返してもらっとこうかな」と手のひらを差し出した。

「休みの間は業者さんが出入りしてたこともあって一応鍵かけてたけど、盗られて困るようなものは移動したし、開けっ放しで問題ないよ。シン君も毎日鍵借りたり返したりするの、面倒でしょ」

「金魚は盗られて困るものじゃないんですか?」

 シンがクスッと笑うと、森谷は「困るよう」と彼の隣で金魚鉢をのぞきこんだ。

「盗られたら海斗君に怒られちゃう」

「怒られるのは先生じゃなくてたぶん俺」

 顔を見あわせて共犯者めいた笑みを交わす二人を見ていたら、波留は居心地が悪くなって「帰ろう」と夜次元クジラにテレパシーを送ってみた。当然伝わるはずもなく、夜次元クジラは我関せずといった様子で噴気孔からプカプカと泡を出している。

 森谷が教室を出ていくと、シンは「やるか」と気合を入れてパーカーの袖をまくり上げた。

 彼は小さいバケツをひっくり返して洗浄用具を外に出すと、カルキ抜きした水と金魚鉢の水をバケツの中に入れて混ぜる。二匹の金魚をそのバケツに移し、金魚鉢には夜次元クジラだけが取り残された。クジラはじいっとシンを観察している。

「俺が金魚鉢持つから、伊足さんそこの道具持ってくれる?」

 金魚鉢を抱えたシンが、床の上に散らばった洗浄用具を足でチョイチョイと指した。波留はそれをかき集めてシンの後をついて行った。


次回/7.スケッチブック

#小説 #長編小説 #ファンタジー #夜次元クジラ #創作大賞2022

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