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夜次元クジラは金魚鉢を飲む #7

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7. スケッチブック


 三年三組の教室を出て視聴覚室の前を通り過ぎると、廊下は左へ折れてその先に階段が続いていた。一階まで降り、開け放たれたドアから渡り廊下に出る。四角い中庭を一望できたが、足洗い場と数本の木のほかは池も銅像も花壇すらなく、青い芝生の向こうに連れ立って下校する生徒たちの姿が見えるだけだった。

「あっちが南棟校舎。図書室とか美術室とか、保健室や職員室があるんだ。体育館はほら、ここ」

 コンクリートが敷かれ、屋根が渡してあるだけの塀も柵もない簡素な渡り廊下を二人並んで歩きながら、頼まれたわけでもないのにシンが案内役を務める。体育館は渡り廊下を挟んで中庭と反対側にあり、重たそうな二枚扉の右側だけが開いて、奥にバスケットゴールが見えていた。

「伊足さん、こっち」

 シンは渡り廊下を外れて中庭に足を踏み入れ、芝生を歩いて南棟の校舎沿いにある足洗い場に波留を連れて行く。

「ここって上履きで歩いていいの?」

「先生に見つからなければ。伊足さん、ザルそこに置いて」

 言われた通り蛇口の下にザルを置くと、シンは抱えていた金魚鉢をひっくり返して中身を移した。プラスチックの水草と小指の先ほどの大きさの底石。その中から顔を出した夜次元クジラがブルブルと大きく体を震わせる。シンが水道の蛇口をひねると滝行でもするように目を閉じ、水に打たれるうちにムクムクと大きくなってシンと同じくらいになった。そして、尾ビレをひと振りして中庭に泳ぎ出す。

「海はいい」

 夜次元クジラの声はどれだけ遠く離れていてもすぐそばで聞こえる。屋上のさらに上まで浮上してあたりを見回した夜次元クジラは、海へは行かず三階の高さまで戻り、校舎の中を観察するようにゆっくりと建物に沿って泳いだ。

「伊足さんが転校してきたのって親の仕事関係?」

 シンは上履きが濡れるのも気にせず、洗い場の縁に腰をおろして底石を洗っていた。波留は金魚鉢を手に隣の水道をひねり、流水音に紛れさせて「僕が不登校だから」と答えた。聞こえても聞こえなくてもどちらでもかまわなかったけれど、石を擦る音が止まり、わずかの沈黙のあと「そっか」とシンの戸惑う声がした。

「前の学校、オンライン対応してくんなかったの?」

「実技はなるべく出ろって。出なくても卒業はできたけど」

「サークルは?」

「入ってない。森谷先生に入れって言われた」

 言いそう、とシンがホッと表情を緩め、その顔を横目にうかがいながら波留は森谷とシンの関係について考えを巡らせる。が、ふと我に返って思考を止めた。どうせ一週間ほどしか学校に通うつもりもないのだから、深く考えても意味がない。

「ひとりが楽」

 波留が言うと、シンはまた「そっか」と口にした。

 波留が想像していたより、この茶髪のクラスメイトはずいぶん口数が少なかった。距離を測りかねているのか会話のあいだに逐一沈黙が挟まり、教室で抱いた第一印象とは違って無遠慮に他人の内面に踏み込むタイプではなさそうだった。

「伊足さんは、金魚好き?」

「人間よりは」

 ハハッと彼の口から笑い声が漏れた。

「俺、金魚に負けた」

「そうだね」

「じゃあ、好きなときに金魚に会いに来たらいいよ。俺は金魚係だから朝と帰りに餌やりに寄るけど、あの教室いつでも入れるみたいだから」

 あそこでサボるのは悪くない考えだと波留は思った。海は見えるし、四次元出目金はいるし、夜次元クジラもあの場所を気に入っているようだ。前の学校で保健室へ避難したように、不登校をチラつかせれば森谷もあっさり許可してくれそうな気がする。

「気が向いたら行こうかな」と言うと、「ぜひ」と力のこもった返事が返って来た。

 顔に飛んだ飛沫を手の甲で拭って三階を見上げると、壁でも何でもすり抜けられる夜次元クジラがわざわざ開いた窓から校舎に入ろうとしていた。そこはちょうど三年三組の教室があるあたりだった。

「金魚鉢もきれいになったし、金魚部屋に戻ろうか」

 シンは洗った石と水草を金魚鉢に入れ、立ち上がってウンと背をそらした。

「金魚部屋?」

「うん、金魚部屋」

 波留とシンが芝生の上を歩いていると、「コラ」と声が聞こえてきた。

「二人とも、上履きで外に出ない」

 南棟校舎の出入口に、言葉とは裏腹に笑顔を浮かべて森谷が立っていた。シンは「すいませーん」と、つま先立ちで渡り廊下へと駆け戻り、今さらと思いながら波留は後について走る。森谷が抱えたものに目がとまった。

「これ、捨てるつもりだったんだけど、波留さんいる?」

 彼女が持っていたのはスケッチブックだった。日焼けで変色し、縁はよれている。

 洗浄用具で両手のふさがった波留の代わりに、森谷がスケッチブックを広げて見せた。石膏像デッサンは中学生の作品にしては可もなく不可もなくといったレベルだが、形の良い鼻からは赤ペンで描かれた血が勢いよく吹き出している。

「誰のですか?」

「卒業生のだけど持ち主不明。美術室整理してたら出てきたんだ。ほとんど使ってないみたいだからもったいないなあと思って。こんなにあるんだもん」

 スケッチブックは全部で五冊あった。どれも最初の三、四枚しか使われておらず、波留が迷っていると森谷はスケッチブックを抱え直して歩き出す。

「とりあえず三組に置いておくから、いるようだったら勝手に持って帰って」

「ありがとうございます」

 波留の頭の中に、授業をサボって金魚部屋で絵を描くという名案が浮かんだ。

 階段を三階まであがると、金魚部屋からクジラの尾ビレがはみ出している。シンと森谷のあとに部屋に入った波留は、夜次元クジラが金魚のバケツを体の内側にすっぽり収めているのを目にして、持っていたものを落としそうになった。

 波留にチラと目を向けた夜次元クジラは、ユラリユラリと胸びれを大きく動かして天井ギリギリの高さまで昇ると、「教師も窮屈だな」ボソッと言い残して窓から出ていった。

 波留がバケツをのぞきこむと、赤い金魚も黒い出目金もぼんやり水の中に浮かんでいる。シンが二匹を金魚鉢に戻してやると覚醒したように泳ぎはじめた。どうやら、夜次元クジラは金魚たちと四次元散歩をしたようだ。

「金ちゃん、出目ちゃん、お疲れさま」

 目を細めて金魚鉢をなでた森谷は、ハッと気づいて後ろに立つ波留とシンを振り返った。

「二人ともお疲れさま」

 部屋には波留が春休みに来たときと同じく、机ひとつと椅子が三つ離れ小島のように置いてある。森谷は抱えていたスケッチブックを机に置き、「お腹すいた」とぼやいて部屋を出て行った。

 触発されて空腹をおぼえた波留が時計を確認すると、すでに午後一時近くになっている。スマートフォンには那波から『終わった?』『まだ? 先に食べちゃうよ』と二件のMESSEメッセメールが届いていた。

「やば、連絡入れてなかった」

 波留は「帰る」となおざりに言い、慌ててリュックを背負うとスマートフォンを操作しながら廊下へ駆け出した。

「あっ、波留さん」

 森谷の呼び方が伝染したのか、シンは呼び止めたあとバツが悪そうにうつむく。立ち止まった波留は眉間にしわを寄せてシンを振り返った。

「波留、でいい。また明日、シン」

「あ、うん。また明日、波留」

 教室に一人取り残されたシンは、波留に振った手がそのままになっていることに気づいて手を下ろした。

 彼女が呆気なく帰ってしまったことに物足りなさを感じ、窓を開けて校舎とグラウンドの間の坂道をながめていると、しばらくして青いリュックを背負って坂を駆け下りていく姿が見えた。

 どこに住んでいたのか、どうして不登校になったのか、女子なのに自分のことを「僕」という理由、「さん」付けは嫌いなのか、森谷からスケッチブックをもらったこと、ここに金魚がいるのを知っていたのはどうしてなのか。聞きたいことがたくさんあったのに、全然うまく話せなかった。

 金魚鉢に顔を寄せ、シンはコツンとガラスを叩く。

「金ちゃん、あいつまたここに来るかな?」

 そっぽを向いた赤い金魚はからかうように出目金を追いかけ、出目金は慌てて水草の陰へ隠れた。


次回/8.思春期の男の子

#小説 #長編小説 #ファンタジー #夜次元クジラ #創作大賞2022


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