夜次元クジラは金魚鉢を飲む #8
8.思春期の男の子
アラームで目を覚ましたシンは、スマートフォンで時刻を確認すると慌ててベッドから飛び起きた。カーテンを引くと外灯が家の前の路地を照らし、空は薄っすらと白んでいる。
メッセージアプリMESSEに通知があり、『来るだろ?』と、海斗からメールが届いている。着信時刻は十分ほど前だ。
ベッド脇のテーブルからタブレットをとり、ロックを解除してホーム画面にあるターコイズブルーのアイコンをタップした。海斗の両親が経営するサーフショップCONAのアプリが開き、ライブカメラの映像を見ると海の濃淡で波があるのがわかる。近場のポイントをいくつかチェックしてみたけれど、CONAのあたりが一番良さそうだった。
コメント欄に何人か知り合いが書き込んでいて、今から行くとか、行きたいという他愛ない書き込みの中に、年度替わりで仕事が忙しくて行けないというものもある。
「そういえば海斗の入学式って今日だっけ」
入学式のために制服を買ったらしいが、ボタンの付いた服は面倒だと文句を言っていた。背丈のある海斗は高校の制服が似合いそうだ。
パジャマを脱ぎながら、シンはスマートフォンに向かって話しかける。
「海斗にメール。テキストで」
『本文をどうぞ』
「今日高校の入学式だっけ?」
ピコンと音がし、シャツに袖を通したシンは文章に変換ミスがないことをチェックして送信ボタンを押した。
『入学祝い絶賛受け付け中』
即座にメールが返ってくる。「年上のくせに」と苦笑しつつ、シンはリュックを背負って部屋を出た。
階段を降りると廊下の奥で物音がし、父親が起き出した気配がある。シンは急いで靴を突っ掛けて外に出ると、音をさせないようにそっとドアを閉めた。鉢合わせなかったことにホッと胸をなで下ろし、自転車にまたがってペダルを踏む。
自宅の隣にあるCHEZ・MAKIMURAは明かりもなく沈黙していた。久しく足を踏み入れていないその建物を横目に見ながら、シンは坂道を下っていく。
自転車を走らせるうち街は次第に明るくなり、海岸沿いに建つCONAに着いたとき、海は白っぽい朝の空を映していた。店の裏手の駐車場に乗り入れると馴染みの車が何台か停まっていて、シンは奥まで自転車を進め、突きあたりにある海斗の家の玄関脇に停めた。
母屋に隣接してガレージがあり、シャッターを押し上げてその中に入る。CONAのロゴが描かれたワンボックスカー、壁際にサーフボードとウェットスーツ、他にも雑多な家庭用品や店舗用品が置かれ、その中にはシンのボードとウェットスーツもあった。荷物を置かせてもらうだけでなく、母屋のシャワーを使わせてもらうこともしょっちゅうだ。
去年中古で買ったサーフボードは白地にテール部分が水色で、CONAのステッカーが貼られている。海斗の父親を介してずいぶん安く譲ってもらったものだった。海斗の幼馴染というだけでずいぶん優遇されている。
シャッターを膝のあたりまで降ろしてウェットスーツに着替えていると、奥にある勝手口のドアが開き、海斗親子の声が聞こえてきた。
「入学式なんだから早めに切り上げろよ」
海斗の父親の声だ。ガレージに顔を見せた海斗は、「はいはい」となおざりに返してドアを閉めた。
「おっす、シン」
すでにウェットスーツを着こんだ海斗は、自分のサーフボードを抱えると空いた手でシャッターを全開にする。
「海斗、入学おめでとう。気持ちだけだけど」
「中坊に何か寄こせとは言わねえよ」
「自分だってこの前まで中坊だっただろ」
「中坊は卒業した。先に行くぞ」
海斗は小走りに駐車場を突っ切ると、建物の向こうに姿を消した。シンが着替え終わるのを待ったりはしない。
小学校の頃からずっと一緒にいたのに、シンはここ数年海斗と自分の差がどんどん開いているように感じる。たったひとつしか年は変わらないのに、海斗の体はもう大人のように逞しく、身長も、肩や腕の筋肉も、声も、シンとはまるで違った。海斗とシンが同じなのは浅黒い肌。それと、傷んで色素の抜けた髪の色くらいだ。
一年前の海斗は今の自分よりひと回り大きかったのに、とシンは心の中でぼやく。ふと、転入してきたばかりのクラスメイトのことを思い出した。
伊足波留。
自己紹介するように言われて立ち上がった波留を、シンは最初男子だと思った。背格好が自分と同じくらいで男子の中では小柄。声は高かったけれど、波留よりも声の高い男子はいるから何も思わなかった。もし波留が「女です」と言わなければ、シンは勘違いしたままだったかもしれない。
女子にはめずらしい短めのショートカットで、シンと同じような洒落っ気のないラフな服装。自己紹介の順番が回ってきたとき、シンは思い切って波留に話を振った。すると、
――僕。
波留は自分のことをそう言った。思わず口に出てしまったという雰囲気だった。
もしかして心は男子なのだろうか。本当は隠しておくつもりだったのを、自分のせいで余計なことを言わせてしまったのではないか。転校もそれが原因だったのか。シンはそんなことをぐるぐる考えながら波留と金魚鉢を洗った。波留が気にしている様子はなかったけれど、傷つけてしまったのではないかと心配だった。
息を吐き、両手でパンと頬を打つ。背のファスナーを上げて馴染ませるように肩をまわし、ガレージの奥に立てかけてあるショートボートを脇に抱えてシンは外に出た。
次回/9.砂浜の二人
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