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夜次元クジラは金魚鉢を飲む #36

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36. バイバイ


「シン、痛い」

「ごめん、でも」

 波留の二の腕に縋るようにしがみつくシンを見て、夜次元クジラはおかしそうに体を震わせた。言葉はなくともバカにされていると分かるが、油断すると波留が窓からダイブしてしまいそうで手を離すことができない。

「飛び降りたりしないよ」

 波留は面倒くさそうにシンを一瞥し、夜次元クジラに向かって伸ばした手を降ろした。心配が消えたわけではなかったけれど、シンは仕方なく手を離し、ふと中庭を見下ろすとこぶしの木のそばに海斗と森谷の姿があった。話し込んでいるのか、二人がこちらに気づく気配はない。

「森谷先生が金魚を殺したんだ」

 波留の声にギョッとして、シンは彼女の顔を見た。キツイ口調とは裏腹に今にも泣きそうに目を潤ませ、その唇は震えている。

「出目金がかわいそうだから、先生は金ちゃんも一緒に埋めたんだ。先生が金魚を殺した」

 彼女が言っているのは、おそらく昨夜見たという夢のことに違いなかった。

「何言ってるんだよ、波留。先生が金ちゃんを殺すわけないだろ。きっと何かあったんだって」

「だって、先生は金魚鉢を割ろうとしてた。出目金を食べた金魚が許せなかったんだ」

 波留の噛みつきそうな勢いに気圧され、シンは唾を飲んだ。

「波留は見たの? 俺の部屋に来たときみたいに、クジラの口の中を通って先生が金魚を殺すとこを見た?」

 シンはできるだけ彼女を刺激しないように優しく聞いたつもりだったが、波留は顔をそらし、膝を折って床にへたり込んだ。

「波留、自分で言ったじゃん。ただの夢だって」

「夢じゃない、あそこは、夢なんかじゃ」

 波留はシンの声を遮るように耳を塞いだ。ふだん感情をあらわにすることのない波留がこんなふうに繕うことなく取り乱しているのは、金魚のことだけでなく、母親との喧嘩も影響しているに違いなかった。

 何を言っても、触れるだけでも波留を傷つけてしまいそうな気がした。彷徨わせた視線が夜次元クジラをとらえ、そのクジラは片側の目だけでシンと波留を観察している。漆黒の瞳に見つめられると何もかも見透かされているようで身がすくみあがる。かと言って、このクジラの幽霊みたいなものが波留にデタラメを吹き込んだのではないかと思うと怖気づくわけにいかず、闇を湛えたクジラの瞳をシンはぐっと睨み付けた。クックッと鳴き声がし、夜次元クジラを透かして見える南棟がブルブルと震える。

「少年、お前の海はなかなかいい」

 夜次元クジラは巨躯をしならせて向きを変え、シンを真正面からとらえるとおもむろに口を開けた。舌もヒゲもなく、底の見えない真っ黒な闇。足下からせり上がってくる恐怖に堪え、シンは波留と夜次元クジラの間に立って窓から身を乗り出した。

「波留に何を見せた」

 闇に向かって叫ぶと、夜次元クジラは口を閉じてシンの鼻先に頭のコブを近づけた。あまりの大きさに夜次元クジラの左右の目を同時に見返すことはできず、シンが目の前にあるコブを睨んで両手を広げると、クジラは口をうっすら開けて笑う。

「ありのまま、望むままだ。少年、お前も四次元に行きたいか?」

「四次元って何だよ」

「三次元にいる限り金魚が生き返ることはないが、四次元では金魚は死んでいると同時に生きている。お前も金魚も存在していると同時に存在していない。店を継ぐだの継がないだの些細なことに惑わされることもない。四次元に行けば己の想うものとひとつになれる。ひとつになりたいなら執着を捨てろ。己が己だということを捨てろ」

 シンの背後でふらりと波留が立ち上がり、よろめきながらシンを押し退けると虚ろな目で夜次元クジラに話しかけた。

「僕は行く。留里ママのところに行くよ。三次元に僕の居場所なんてないんだ。金魚がいなくなったら、ここも金魚部屋じゃない」

「何言ってるんだよ、波留」

 シンが肩に触れようとすると波留はふらつきながらそれをはねのけた。

「みんな嘘つき。自分のことばっかり。僕はそんなふうなりたくない。だから、僕は三次元から消える。それで全部上手くいく」

 波留は首からペンダントを外すと夜次元クジラに向かって投げつけた。

「何やってんだよ、波留! 大事なものだろ!」

 汽笛のように、低く長くクジラが鳴いた。ペンダントは夜次元クジラの体の中で放物線を描いて中庭の真ん中あたりに落ち、こぶしの木の陰にいた二人が訝しげに三階の窓を見上げた。

 波留が、窓に手をかけクジラに手を伸ばす。シンが慌てて後ろから抱きかかえると、彼女は逃れようと体を左右にねじってもがいた。

「夜次元クジラ。ペンダントは捨てたから、僕を四次元に連れてって」

「母親からもらったものなんだろ。思い出の品じゃないのかよ」

「僕の誕生日にあのペンダントを渡そうとしてママは事故にあった。僕がいなかったらママは死ななかったんだ。土砂の中で痛い思いをすることも怖い思いもすることもなかった」

 波留はシンがまわした手を掴んでポロポロと涙をこぼし、シンの手に波留の熱が伝わった。

「シン、バイバイ」

「バイバイ? バイバイって何だよ!」

 波留は夜次元クジラに向かって両手を広げ、クジラが大きく口を開け、シンの目の前に闇が広がった。足がすくみそうになり、シンは波留の体を強く抱きしめる。飲み込まれても波留から手を離すつもりはなかった。

「行くか?」

 夜次元クジラが波留に向かって訊ねる。

「うん、行く」

「どこに行くのか知らないけど、波留一人では行かせない!」

 地球も、宇宙も、すべてをまるごと飲み込んでしまいそうな闇が窓の外にあった。窓枠がずぶずぶと闇に飲まれ、そのあとすぐ波留の姿も見えなくなる。

「波留ッ!」

 腕の中には波留の体温があり、シンが必死になって彼女の細い体を抱きしめていると耳元で聞こえていた荒い息づかいが少しずつ落ち着き、闇が次第に黒い霧に変わっていった。それもじきに晴れ、シンの目に南棟の校舎が映る。中庭の真ん中で海斗と森谷がこちらを見上げていた。

 腕の中に波留はちゃんといたけれど、意識はなくグッタリともたれかかるようにシンに体を預けている。シンが夜次元クジラを探してあたりを見回すと廊下に巨大な尾ビレが見え、それが金魚部屋に消えると、教室の中で身を翻したのか、ぬっクジラの頭が廊下に現れた。

「波留は?」

 シンが問うと、クジラは憐れむような眼差しを向ける。

「少年にはまだ無理だ。海に触れなくとも海とひとつになれたら、いずれ波留ともひとつになれる」

「波留を戻せ」

「お前が抱いているのは誰だ?」

 体を揺らして笑い、廊下を横切って中庭へ出ていくクジラの腹の中に、波留の姿があった。シンにはまったく気づかず、彼女は見えない何かに向かって話しかけている。シンの腕の中で、波留が「あ……」と寝言のような声を漏らした。

「おい、クジラ! 波留を戻せ」

 屋上に向かって浮上しようとしていた夜次元クジラは、体をよじって目だけを窓からのぞかせた。

「望むままだ。戻りたいと思えば嫌でも三次元に縛られる。死んでいようが生きていようがそれは同じだ」

 夜次元クジラはお腹に波留を内包したまま北棟の屋上に姿を消し、その行き先を予測してシンがドアの開け放たれた金魚部屋に目をやると、青く透明なクジラの姿が窓の向こうに現れた。夜次元クジラもその内側にいる波留も、振り返ることなく海の方へと遠ざかっていった。


 夜次元クジラの姿が見えなくなると、シンは波留を壁を背もたれにして廊下に座らせた。息はしているが、肩を揺り動かしても声をかけても目を開けない。

「……留里ママ」

 うわごとのように波留がつぶやいた。表情が緩み、わずかに笑みを浮かべた彼女の目から涙がこぼれた。


次回/37.四年ぶりの再会

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