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夜次元クジラは金魚鉢を飲む #37

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37. 四年ぶりの再会


 シンの腕の中で、波留は彼と初めて会った日のことを思い出していた。新学期初日、帰りに金魚部屋に寄ったら鍵を持ったシンがやって来て、あのときも今と同じように潮とココナッツと汗の混じった夏の匂いがしていた。

 背丈は同じくらいなのに体に回された彼の腕は波留よりもひとまわり太く、その腕の力と背中から伝わる体温が自分の内にある三次元への執着を呼び覚ましてしまうのが怖い。離れなければと窓の外に手を伸ばすと夜次元クジラは躊躇いなく波留を飲み込み、視界から光が消え、と同時に背中にあったシンのぬくもりも消えた。

 心許なさに囚われては四次元に行けない。波留は自分に言い聞かせて闇を見据え、そのうち闇は薄らいで、マーブル模様の景色がゆっくり形をとりはじめた。

 潮の匂いが鼻をかすめ、波の音がするけれど景色はまだはっきりしない。青を基調にしたグラデーションは海のようだが、その青さは紺に近い深みがあり、わずかに緑がかった微睡の海の色調とは微妙に異なっている。

 シンはあの後どうなったのだろう。

 一緒に夜次元クジラに飲まれたけれどシンの気配はすっかり消えてしまい、いつかの夏祭りのように同じ場所に行くことはなさそうだった。波留とは違う座標にひとりで迷い込んだのかもしれない。だとしても、シンならじきに三次元に戻れるはずだ。泳いで、潜って、波に乗ることのできる三次元の海が彼には必要だし、それに、三次元には海斗がいる。

 じゃあ、僕は……?

 ザブンと波の音がして不意に衝撃があり、倒れそうになって手を伸ばすと後ろから掴まれて座らされた。

「こら、波留。後ろの人が見えないんだからちゃんと座ってなさい」

 留里の声だった。前方に伸ばした自分の手は紅葉の葉のように小さく、目の前にはオレンジ色のライフジャケットを着た男性が座っている。肩越しに柵が見え、その向こうに海。いつか三人で行った、座間味のホエールウォッチングだ。

「ママ! あそこ、しっぽだ!」

 海面に付き出した尾ビレは波留のペンダントのような綺麗な形ではなく、何かにぶつけてケガをしたのか、それとも何かに食われたのか、抉ったように一部が欠けていた。出目金のことが頭を過り、結局こんなに広い海も片田舎の中学校にある金魚鉢の中と同じなのかと思う。縄張り争いがあって、食うか食われるか。三次元にいる限りそれは変わらない。

「すごいね」

 右から那波の声が聞こえたが、小さな波留はクジラに夢中で、尾ビレの沈んでいった波間をじっと見つめている。不意に前の男性が体勢を変えて視界をふさぎ、波留は不満を訴えるように母親たちを振り返った。

 見上げた先に留里の笑顔がある。股のあいだに波留を座らせ、片手でシートベルトのように押さえつけ、彼女のもう片方の手は那波の手と繋がれている。那波は今よりも垢ぬけた髪と化粧、留里は記憶にあるままの金髪のベリーショート。三十代になったばかりの若々しい母親二人の姿がそこにあった。

「クジラさん、もっと近くに来ないかな?」

「波留、食べられちゃうよ。すっごく大きいのに怖くないの?」

「うん、怖くないよ。だってクジラだもん」

 母親たちは顔を見あわせて笑い、波留は二人が繋いだ手に自分の手を伸ばした。

「僕も手つなぎたい」

「じゃあ、波留。ここに座って」

 留里が波留の脇に手を入れてヒョイと持ち上げ、那波とのあいだに座らせた。波留は二人の真ん中で、左右の手を二人の母親とつなぐ。

「波留! ほら、見て。近い」

 留里が指さした先でぬうっと頭を出したクジラは、船に飛沫を浴びせて海の中に消える。歓声と笑い声がそこかしこであがり、波留も飛び上がらんばかりにはしゃいでいたが、賑わう船上のどこかで波留の名前を呼ぶ声がした。

「波留」

 声に誘われて空を仰ぐと、頭上を夜次元クジラが泳いでいる。思わず立ちあがった波留の足がスウッと甲板から離れ、そのまま風に流されるように意識がクジラの腹の中まで運ばれると、そこには留理が立っていた。パーカーにワークパンツ、金髪のショートカット、ピアスは右耳にひとつ、左耳にふたつ。波留が留里の泣き顔を目にするのは初めてだった。

「留里ママ、僕を待ってた?」

 留里は小さくうなずいて両手を広げ、波留は駆け寄ってその胸に飛び込んだ。けれど、抱き合うことはできず互いの体はすり抜けてしまう。

「そっか。波留も私もヴァーチャルなんだ」

 留里がため息とともにつぶやき、むかし学校でいじめられて帰ったときも母親がこんな顔をしていたことを波留は思い出した。

「大きくなったね、波留。相変わらずママと同じような格好してる。いつか金髪にするのかな」

 留里は波留の輪郭を両手でなぞり、触れる感覚はなくても波留の胸に懐かしい温もりが広がっていく。

「留里ママは、ずっと四次元にいたの?」

 波留が聞くと、留里は「四次元?」と不思議そうに目をしばたかせた。

「ママも夜次元クジラに会ったんでしょ? 夜次元クジラが教えてくれた。四次元にいけば留里ママに会える。ひとつになれるって」

「夜次元クジラって、絵本の?」

「留里ママは夜次元クジラと一緒じゃなかったの? 夜次元クジラじゃなくても、誰か対話者がいたでしょ?」

 留里は困惑気味に首を振り、その反応を見た波留の動揺が伝播するように景色が波紋を描いて歪む。留里が死んでから四年、そのあいだ留里は対話者もなく一人で彷徨っていたのだろうか。

「ここは四次元なの?」

「まだここは四次元ではない」

 答えたのは夜次元クジラだった。


次回/38.地図にない座標

#小説 #長編小説 #ファンタジー #夜次元クジラ #創作大賞2022


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