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夜次元クジラは金魚鉢を飲む #38

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38. 地図にない座標


 突然聞こえてきた夜次元クジラの声に留里は驚き、キョロキョロと周囲を見回したが見えるのは上下左右三六〇度の青い世界だけだ。警戒した表情のまま彼女は波留を抱き寄せようとしたけれど、そうできないことに気づいて苦笑を浮かべる。

「ママ、ここは夜次元クジラのお腹の中なんだ。僕は三次元を離れてここに来た。ママに会うために四次元に来たんだ」

 さっきまで足下に見えていたホエールウォッチングの船は今は消え、頭上から差し込んだ光の筋がキラキラと瞬いて、夜次元クジラがククッと鳴き声を漏らすとその光の筋が小刻みに震える。留里は「クジラのお腹?」と困惑気味に首をかしげた。

「言っておくがここは四次元ではない。体がないのに三次元に執着するとお前のようなことになる。中途半端なのは親子そっくりだ。ここが四次元であればそうやって互いの姿を見て話す必要などない。すべてはもともとひとつなのだから」

「じゃあここはどこ? 私は幽霊か何か?」

 姿の見えない声の主を探し、留里は頭上に向かって叫んだ。視界がビリビリと細かく震え、その振動が数秒で落ち着くと、まるで海のトンネルを猛スピードで疾走しているように青い景色が流れていく。

「夜次元クジラ、どこに向かってるの?」 

「思うまま」

 聞き飽きた答えが返って来た。女、とクジラは留里に呼びかける。

「ここは孤独だろう。誰にも気づかれることがない」

「そんなことない。幸せな思い出がたくさんあったし、嫌な記憶も自分の思い込みだったって気づけた」

「お前は何度も自分が生きていた過去を追体験し、死なないよう足掻いた。だが、三次元での行動はすでに決まっている。お前はじきに諦め、アルバムをめくるように幸せな体験だけを何度も何度も擦り切れるほど繰り返した。それで孤独から逃れることはできたか?」

 夜次元クジラの言葉に留里はギュっとこぶしを握りしめ、波留はその様子に胸が痛んだ。きっと留里の地図には自分が死んだ先の座標が存在せず、夜次元クジラが言ったように三次元に囚われて過去の追体験から逃れることができずにいる。もしそうなら、夜次元クジラが四次元ではないというこの場所で留里と対面している波留自身も、まだ三次元に執着しているということだ。それとも、留里に会いたいと望んだからここに来たのだろうか。

 考えこんでいると、「でも」と絞り出すような留里の声が景色を揺らした。

「ここにいたから波留とまた会えた」

 口にしたあと、留里はハッと波留の顔を見る。

「波留はどうしてここにいるの? まさか……」

 死んでないよ、と安易に答えることは波留にはできなかった。四次元に行くと覚悟を決めて夜次元クジラに飲まれた自分の体がどうなるか、波留には分からない。死ぬのかもしれないし、もう死んでいるのかもしれない。

「いいんだ。僕は留里ママと一緒に四次元に行く。そのつもりだから」

「ダメ。那波がひとりになっちゃう」

 今朝、なりふり構わず玄関を飛び出してきた那波の姿が波留の脳裏をかすめた。くせ毛の髪はボサボサで、普段はパジャマで外に出るなんて絶対にしない人が、シンたちがいるにも関わらず大声で波留の名を呼んだ。

 ――ダメだ。

 波留は首を振って思考から逃れようとした。こうして三次元に執着しているからいつまでも四次元に行けない。もしまた三次元に戻ってしまったら再び留里に会えるかも分からない。

「僕はいないほうがいいんだ。僕に父親を作るために那波ママは男の人と結婚しようとしてる。父親なんていらないのに」

 留里が「そう」と寂しげに微笑み、波留は口にしたことを後悔した。

「でも、波留は死んだわけじゃないんでしょ?」

「分からない」

「ねえ、波留はどうなるの?」

 頭上を仰いで叫ぶ留里の姿は、まるで神と対話しているようだった。神に願うとき、人は頭を垂れる。なら、空を仰ぐ留里はクジラと対等であろうとしているのだろうか。

 青い景色の一部が複雑な色彩のマーブル模様に変わり、その範囲がぐんぐん広がっていった。どうやら夜次元クジラが口を開けたようだ。

「四次元に行く者には意味のない質問だ。お前も波留も死んでいるし、生きている。存在しているし、していない」

「もっと分かるように説明してよ」

 声を荒げた留里の姿が、昔アトリエで仕事仲間と議論していた頃の彼女の姿と重なる。懐かしさに波留がクスッと笑みをもらすと、その振動が伝わったのかマーブル模様に歪んだ景色がブルブルと細かく震えた。その歪みは留里のすぐ足元まで迫り、波の音と、風の音と、車が過ぎ去っていく音が聞こえ、濃い潮の匂いがする。

 夜次元クジラが長く汽笛のような声をあげ、潮風で波留と留里の短い髪が靡いた。

「三次元慣れした思考は不便だ。知ろうと思えばなんでも知ることができる。女、お前は何が知りたい?」

「那波のところに連れて行って。那波の本当の気持ちが知りたい」

 留里がその言葉を言い終えたとき、二人は芝生の上に立っていた。小石のような明かりの消えたソーラーライトが並び、振り返るとようやく目に馴染みはじめた中古住宅が建っている。

「ここは?」留里が波留に問いかけたとき、玄関のドアが勢いよく開いて那波が飛び出してきた。

「波留!」

 ボサボサ頭にパジャマ姿のままの那波は、道端にいる三人の人影に向かって走っていく。ウェットスーツを着たシンと海斗、その二人の陰に波留の姿があった。


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#小説 #長編小説 #ファンタジー #夜次元クジラ #創作大賞2022

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