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夜次元クジラは金魚鉢を飲む #42

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42. 時空交差点


「夢じゃないよ、那波」

 留里の言葉に夜次元クジラがククッと笑い、鏡の中に広がる青い海と、どこかから射し込む光の筋とがブルブル小刻みに震えた。

「夢はもうそろそろ終わりだ。今ならお前たち二人で四次元に行けるだろう。ずいぶん体から離れるのが上手くなったし、時間の流れからも自由になった」

 お前たち二人とは、問い返すまでもなく波留と留里のことだ。それなら、

「時間の流れから自由になったってどういうこと?」

「三次元にいながら、二度同じ体験をしただろう?」

「時を戻せるってこと?」

 波留が聞くと、那波が「時を?」と眉をひそめ、夜次元クジラは愉快そうに高い声で鳴いた。

「ねえ波留、クジラはなんて言ってるの?」

 鏡越しに留里と波留とクジラのあいだで視線を彷徨わせている那波には、どうやら夜次元クジラの声が聞こえないようだった。説明しようにも、夜次元クジラの言うことは波留にも理解が追いつかない。

 でも、もし夜次元クジラの言うように時間の流れから解放され、時を戻せたのなら――。

「時を戻せるなら、あの日に戻りたい。飛行機に乗らないでって、留里ママに電話すれば。帰って来なくていいって、伝えれば!」

 波留の叫びに、まるで首でも振るように夜次元クジラは体をしならせ、ため息混じりの呆れ声を出した。

「三次元の行動が変わらないことは知っているだろう」

「なら、この姿のままあの日に行く。那波ママに見えたんだから留里ママにも見えるかもしれない。会えなくても、電話で話せるかも」

「それはもうやったはずだ。そうだろう?」

 夜次元クジラは留里に向かって問いかけ、最初彼女は首をひねって怪訝な顔をしたが、何か思い当たったのかアッと声をあげた。

「メール! 飛行機に乗らないでってメールが来た。差出人が分からなかったから無視したけど、あれ、もしかして波留だったの?」

「僕が?」

 波留は昨日の四次元散歩の時のことを思い出した。姫路の祖父母の家で留里と電話をしながら、その通話の間ずっと飛行機に乗らないでと祈り続けていたのだ。

「あれ、届いたんだ……」

 納得したか、と言うように夜次元クジラは頭を上下してうなずく。

「さあ、四次元に行くなら今のうちだ。これ以上中途半端に執着し続けるなら、四次元にも行けず三次元にも戻れなくなる」

「四次元に……」

「行くのか」と、これまで通り素っ気なく夜次元クジラが言う。鏡に映る那波も留里も、夜次元クジラも、すべてが波留を見つめていた。

 留里は寂しそうに笑い、那波は不安と焦燥に駆られた顔で波留の次の言葉を待っていて、夜次元クジラは汽笛のような声で鳴く。那波に聞こえないその鳴き声が、波留たちと那波のあいだにある隔たりを思い出させた。

「お願い、留里。波留を連れて行かないで」

 鏡に映る蒼白い那波の顔はまるで海の亡霊のようだ。これではどちら側が生でどちら側が死なのかも分からない。波留が口を開こうとしたとき、インターホンの音が聞こえた。

「誰かしら」

 那波は苛立たしげに廊下に顔を出し、ドタドタと切羽詰まった足音と、田辺が那波を呼ぶ声がした。

「那波!」

 田辺は思いのほか険しい顔で、那波が不安そうに「何?」と尋ねる。

「玄関に勇気さんが来てる。海斗君から電話があって、波留ちゃんが学校で倒れたって。那波の電話が繋がらないから勇気さんにかけたみたいだ」

 ヒッと息の止まりそうな声を出すと、那波は洗面所を振り返った。海と夜次元クジラは鏡の中から消え、タオルやトイレットペーパーが置かれた雑多な棚が映っている。そこに紛れるように薄っすらと留里と波留の姿があった。

「那波、僕が運転するから早く行こう」

 田辺が廊下から急かし、那波がうなずくと彼は玄関へ向かったようだった。かすかに耳に届く田辺と勇気の話し声を聞きながら、那波は瞳を潤ませて鏡に縋りつく。

「波留を連れていかないで。お願い」

 連れて行かない、と言う留里の声はもう那波には届かず、何か言いたそうな波留と、笑顔で手を振る留里の姿は鏡の中で濃くなる現実世界にのまれて那波の視界から消えた。

「波留! 留里!」

 那波がいくら目を凝らしても二人の姿はすでにそこになく、洗面台の向かいの戸棚と、那波自身の姿が映るばかりだ。

「那波」と、また田辺が呼んだ。

 洗面所から駆け出して行く那波の後ろ姿を、波留と留里は鏡の内側から見送っていた。闇の中で四角く切り取られた窓枠の中に洗面所があり、那波がいなくなればそこにはもう誰の姿もない。

 田辺のシェーバーと、那波のスキンケア用品と、三人分の歯ブラシがあるのは向こう側・・・・の世界。その窓はどんどん下の方に遠ざかって、小さな光の点になり、天の川の光の粒に混じってどれが窓なのかも分からなくなった。もしかしたら、すべての光の粒がどこかにつながる窓なのかもしれなかった。上を見ると、遥か高い所を夜次元クジラが泳いでいる。

「星は、それを星だと信じているから夜には星がある」

 留里が両手を広げ、降り注ぐ星たちは波留と留里の体をすり抜けて闇の底へと落ちていった。

「夜次元クジラはいつもそこにいる」

 留里は続けて口にしたが、それは絵本にはない言葉だった。

「どういう意味?」

 波留が聞くと留里は昔のように悪戯っぽく微笑み、上を見上げて夜次元クジラを指さした。

「波留、クジラ好きでしょ?」

「うん。あの夜次元クジラは性格悪いけど」

 留里がクスッと笑う。

「波留に誕生日プレゼントあげるつもりだったんだ。クジラの尻尾の形をした幸せのお守り」

「持ってるよ」

 波留はパーカーの中に手を突っ込んだけれど、ここに来る前に窓から投げ捨てたことを思い出し、と同時にシンのことが頭を過った。海斗がわざわざ父親を頼って連絡してきたのだから、シンもきっと心配しているに違いなかった。

 彼は今どうしているだろう。もし波留が死んでしまったらシンは泣くだろうか。このまま四次元に行けばもう二度と手をつなぐこともないし、微睡の海も見られない。それとも、四次元に行けばシンとひとつになれる?

 ひとつって、なに?

「ママ。もらったペンダント、学校に置いてきちゃった」

「じゃあ、取りに行かないと」

 ねえ夜次元クジラ、と留里は遠くを泳ぐ夜次元クジラに向かって叫んだ。留里はすっかり憑き物の落ちた顔をして、屈託ない笑顔を波留に向けたけれど波留はそんなふうに笑うことができない。この後どうするか、その答えはもう波留の中で出てしまったのに、まだそれを口にしたくなかった。

「ねえ、ママ。僕は留里ママと那波ママの子どもだから、きっと女の子を好きになるんだって思ってた」

 娘の突然の告白に留里は目をしばたいたあと、海斗のニヤニヤ笑いに似た三次元っぽい笑みを浮かべた。

「もしかして、波留は好きな人がいるの?」

「わかんない。好きだって言われて、嬉しかったけど怖くなった」

「怖い? どうして?」

「留里ママみたいに急にいなくなったらって考えたら、怖い」

 うつむいた波留の顔を留里がのぞきこんだ。

「波留は、ママのこと好きにならないほうが良かった?」

「まさか」

 留里は満足そうにうなずき、ふと波留の胸元に目をとめた。いつの間にか波留の首にはペンダントがかかり、銀色のクジラの尻尾は光の粒を反射してキラキラ光っている。留里の顔も、その光でキラキラと光った。

「留里ママ、ペンダントありがとう」

 留里は口を動かして何か言ったけれど、波留には何と言ったのか聞き取れなかった。ペンダントの反射する光と降り注ぐ星の光で留里は白く霞んでいき、いつの間にかまわりは夜明けのように白んで、夜次元クジラの姿もどこかに見えなくなっていた。

 白く輝く留里の背後で、水平線から朝日が昇るようにまばゆい光が世界を覆いはじめる。その姿は光に溶け、気づくと波留はベッドの中で白い天井を見上げていた。


次回/43.わからないこと

#小説 #長編小説 #ファンタジー #夜次元クジラ #創作大賞2022

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