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夜次元クジラは金魚鉢を飲む #43
43. わからないこと
波留の手の中にペンダントの丸く尖った感触があった。その自分の手がひとまわり大きな誰かの手で包まれている。
「波留?」
ベッドに横たわったまま目を動かすと、声の主はぬっと身を乗り出して波留の視界を埋め尽くす。
「シン」
波留の声は掠れていたけれど、シンの顔に張り付いた緊張がほぐれ、彼はアッと声をあげて波留の手を離した。「なんで離すんだよ」と、からかう海斗の声がすぐ近くから聞こえる。
「波留さん、気分はどう?」
森谷が枕元から波留の顔をのぞきこんだ。彼女の手が額に触れたはずなのに指の感触がなく、波留はドキッとしたけれど、額からジェルシートを剥がされ、今度は森谷の指が直に波留の肌に触れる。
出目金が尾ビレを振って泳いでいた。体を失くしたにも関わらず三次元に縛られたままの出目金は幸せなのだろうか。金魚の表情は波留には読めない。
「波留、ポカリ飲む?」
シンがポカリの缶を差し出し、波留が上半身を起こすと彼は気遣うように背中を支えた。その感触で三次元に戻ったのだと実感し、安堵と同時に、もう留里には会えないという喪失感が胸に広がった。
四次元に行ってしまった留里は幸せだろうか。
「ねえ、シン。シンがこのペンダント見つけてくれたの?」
「うん。海斗も一緒に探してくれた。それがないと波留が戻って来ない気がして」
「そう。ありがとう、シン」
「大したことないよ」
シンは照れくさそうに笑い、海斗がニヤニヤと口元を歪める。
もしこのペンダントが見つからなかったとしても、波留は三次元に戻ると決めていたからおそらく留里と一緒に四次元に行くことはできなかったはずだ。かといって確実に三次元に戻れたという自信もなかった。もしこの体に戻れなかったら、あの四次元でも三次元でもない場所で夜次元クジラと一緒に彷徨い続けたのかもしれない。
夜次元クジラはまだあそこにいるのだろうか。波留はあたりを見回してみたけれど、その姿はなかった。
「お家には連絡ついたから、迎えに来てくれるって」と、森谷が机のコールフォンに目をやった。那波が到着したら連絡があるのだろう。
壁にかかったアナログ時計を確認すると、ずいぶん長くあの世界をさまよっていた気がしたけれど、実際にはそれほど時間は経っていなかった。平日であればまだ一時間目がはじまったばかりだ。
洗面所から駆け出した那波の姿が脳裡を過った。那波はまだ、波留が死んでしまうと思っているのかもしれない。
プップッーと呼び出し音が鳴り、森谷が事務机のコールフォンを取った。分かりました、と一言答えて受話器を置くと、「迎えが来たよ」と笑顔で波留を振り返る。
「ちょっと行ってくるね」
森谷が保健室のドアを開けると、パタパタとスリッパの足音が聞こえた。廊下に出た森谷はすぐに頭を下げ、小走りの足音が保健室の前で止まる。ドアの陰から那波と田辺が顔を出した。
「波留!」
スリッパが脱げそうな勢いで保健室に駆け込み、那波は勢いのまま波留を抱きしめようとしたけれど、怖気づいたようにハッと手を引っ込めた。手を伸ばして存在を確かめるようにおそるおそる頬に触れ、肩をなでる。それからようやく波留を抱きしめた。
「波留、良かった」
那波はパジャマを着替え、髪はとかしていたけれど化粧はしていない。
「留里ママ、一人で行っちゃったよ」
波留がそう口にすると、那波は波留の肩に顔を埋めてうなずいた。保健室の入り口に控えていた田辺が、遠慮がちに那波のそばに歩み寄りその背中をさする。
「ねえ、那波ママ。ママが留里ママより先に田辺さんに会ってたら、田辺さんと結婚した?」
「……うん、たぶん」
顔をあげた那波は、まっすぐ波留を見て答えた。
「ならいい。僕は那波ママが幸せならいい」
「ダメよ。波留も幸せじゃなきゃ。もっとちゃんと話せば良かった。ずっと女ばかりで暮らしてきて、男の人が家にいるだけで戸惑うのに、何も分かってあげれなかった。ママも田辺さんも、結婚や同居にこだわってるわけじゃないから」
田辺が口を開きかけ、波留が「出ていかなくていいよ」と先回りして言うと二人は驚いたように顔を見合わせた。
「出ていかなくていい。僕はまだママを支えられるほど大人じゃないから」
感極まった様子で田辺は那波の体ごと波留を抱きしめようとしたけれど、波留は「でも」と布団にもぐりこむ。
「そういう慣れなれしいのは無理。田辺さんだからとかじゃなく、それが僕だから」
田辺は広げた両手をバツが悪そうに下ろすと、右手を波留の前に持っていった。
「握手は?」
波留が布団から手を出して田辺の手を握ると、那波が両手で二人の手を包み込んだ。
「那波ママ、今度ホエールウォッチング行こう。夜次元クジラに会いに」
そうね、と那波は座間味に三人で行ったときのことを思い出したのか懐かしそうな顔をした。
シンが車椅子を持ってきてベッドの横につけ、波留が立ち上がると介助するように手を握る。船上で母親二人と手を繋いだときの、温かく包まれるような感覚が一瞬だけ蘇って消えた。
那波と田辺は森谷と話をしながら先を歩き、波留は車椅子をシンに押してもらい、海斗はシンと波留の靴を持って一緒に玄関に向かった。
「あっ、そうだ」
シンが突然声をあげた。波留は体をよじって彼の顔を見上げる。
「波留。そういえば、金ちゃん死んでなかった。先生が金魚鉢の水こぼしちゃって、それでバケツに移したんだって」
「そう。……そっか、そうなんだ」
波留は廊下の先を歩く森谷の背を見つめた。四次元散歩で見た金魚部屋での光景が現実だったのか、そうでないのか、あまりにも色々なことがありすぎて、どこまでが夢でどこまでが現実なのか、もうよく分からない。
夜次元クジラがどこかで笑っていそうだ。四次元に行けばすべてわかる、と。けれど、分からないことだらけのこの世界もそれはそれでいい。分からないものは分からないままでいい。
ねえ、そう思わない?
森谷の傍を泳ぐ出目金に向かって心の中で話しかけると、出目金は体をくねらせて後ろを振り返り、不思議そうに頭をかしげた。
次回/44.エピローグ
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