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夜次元クジラは金魚鉢を飲む #40

)クジラリンク(マリンスノー


40. 触れられない人


「波留!」

 パジャマ姿の那波が、ペタペタとサンダルの音を響かせて波留と留里の目の前を通り過ぎて行った。何が枷になっているのか留里は追いかけることを逡巡し、波留は波留で少しでも動いてしまったら意識が体に引っ張られてしまいそうな気がして一歩も動けずにいる。

「行ってきます!」

 門の向こうでは青いリュックを背負った波留が那波から逃げるように走り去り、その場にいる全員が呆然とその後ろ姿をながめていた。萎むように肩を落とした那波は海斗に何か声をかけられ、一言、二言ほど言葉を交わしたあとうつむきがちに敷石を歩いて戻って来る。シンと海斗は足早にCONAの方へと去って行った。

「那波」と、ようやく留里が声をかけたものの那波が振り向くことはなく、二人の目の前で深いため息をついた彼女はやりきれなさそうにクシャクシャと髪をかきあげる。

 波留はそばに寄って声をかけたいのを我慢していた。ここで那波に縋ってしまったら三次元に引き戻されてしまうのではないかという危惧が波留を押し留めていたけれど、四次元へ行くという選択が正しかったのか、自分の決断に自信が持てなくなっている。

「那波」

 ドアの開く音と同時に聞こえたのは田辺の声だった。彼は玄関から顔を出し、那波のうなだれた姿を見ると駆け寄って肩を支え、その二人の様子に波留は激しい動揺を覚える。数週間三人で暮らし、田辺が那波に触れるのを何度も見てきた。けれど、これほど感情を揺さぶられたことはなく、波留にはこれが自分の感情ではない・・・・・・・・・とすぐに分かった。隣で顔を強ばらせた留里の嫉妬が波留の内側を震わせている。

「波留ちゃんは?」

 田辺が聞くと、「行ってきますって、逃げられちゃった」と、那波は落胆を誤魔化すようにおどけた口調で言う。田辺は真顔のままだ。

「やっぱり、僕は一旦ここを出た方がいいかもしれないね」

「そんな、慌てなくても」

 那波は田辺のシャツを掴み、彼の手が那波の肩を引き寄せた。波留の心臓はここにないし、もしかしたらもう死んでしまっているのかもしれないのに、ドクドクと鼓動が速まる音がする。

「僕らが急ぎ過ぎたんだ。ここに引っ越して来たのは波留ちゃんのためなのに、僕がそれに便乗して浮かれてた。結婚のことも含めて、ちゃんと考え直した方が良さそうだね。波留ちゃんに我慢させるなら引っ越した意味がないよ」

 田辺と那波は身を寄せて会話しながら家の中に入っていった。取り残された留里はじっと玄関のドアを見つめ、波留の中に嫉妬と困惑と安堵が混じった複雑な感情がぐるぐると渦巻いている。このわずかに感じる安堵の意味が波留には分からなかった。

「波留、今の人が那波の結婚相手?」

「うん、田辺一季さん。那波ママの教室の生徒だった人」

「二人のつきあいは長いの?」

「知らない。でも、一年前は付き合ってたみたい」

「そう」

 力なくため息をつくと、留里は何かに引っ張られるようにフラフラと石段をあがっていく。玄関のドアを引こうとして力が作用しないことに気づくと、彼女は躊躇うことなくドアをすり抜け、この三次元の物質に触れられないという幽霊のような体験を、留里が幾度も重ねてきたのだと波留は悟った。

 波留は留里の後について中に入る。廊下にはコーヒーの香りが漂い、リビングから那波と田辺の話し声が聞こえ、誘われるように留里がドアに手をかけたとき、廊下の突き当たりの洗面所から克樹が顔を出した。彼は首にかけたタオルで頬を拭いながら、足音を忍ばせてゆっくりとこちらに歩いて来る。

「克樹さん」留里は克樹の姿を懐かしそうに目で追った。

「叔父さん、昨日から遊びに来てるんだ。たぶん結婚報告するために那波ママが呼んだんだと思う」

 克樹は波留と留里の目の前で立ち止まり、リビングに入るタイミングをうかがっているのかしばらくその場に佇んでいた。

「波留はどんどん克樹さんに似てくるね」留里がぎこちなく微笑む。

「性格は相変わらず留里ママ似だよ」

 留里は笑っていたけれど、そこには寂しさや悲しみが溶けているように見え、波留は母親の手を握ってあげられないことをもどかしく感じた。二人が見つめる前で、克樹は意を決したようにノブに手をかける。

「おはようございます。波留は?」

 克樹はリビングのドアを開けるなり口にした。波留と留里は半開きのドアのそばで三人のやりとりをうかがっている。

「おはようございます。波留はもう学校に行ったみたいです」

 テーブルにコーヒーカップを置きながら田辺が答えた。

「休みなのに早いですね。朝ごはんは?」

 田辺も克樹も那波を気遣ってか妙に軽い口調だった。けれど、キッチンカウンターの奥に立つ那波の笑顔は強ばっていた。身支度もまだのせいか、四年前と変わらない姿の留里に比べるとずいぶん疲れて年を取っているように見える。

「パンが一枚減ってたから食べたんだと思う。はい、これ克樹の分」

 那波は出来上がったベーコンエッグを克樹に渡し、チンと音をたてたトースターからきつね色の食パンを取り出した。テーブルに三人分の朝食が並ぶと、那波はエプロンを外して椅子の背に引っかける。

「先に食べてて。そういえば顔も洗ってなかった」

 取り繕った笑顔のままリビングを出た那波は、二、三歩廊下を歩くと空気が抜けるような深いため息をついた。トボトボと歩く那波に、留里は何度も名前を呼んで話しかける。その声にまったく反応することなく、沈鬱な面持ちで那波は洗面所に入っていった。

「幽霊にもなれないみたい」

 留里は半ば諦めたような顔で肩をすくめる。波留も正直なところ落胆していた。海斗にシンが見えたのなら那波にも留里が見えるかもしれないと安易に考えていたけれど、そう上手くはいかないらしい。思い返してみると海斗もシンも対話者を見てもその自覚がなく、現実か夢か、どちらかとして認識している。あり得ないもの・・・・・・・を見るのは、それほど簡単ではないのだ。

「見えなくて良かったのかも」

 ポツリと留里がつぶやいた。すると、波留の内側にあったモヤモヤした感情が、こんがらがった糸をほどくようにスッキリとしてくる。

「那波ママと話せなくていいの?」波留が問いかけると留里はコクリとうなずく。

「私はもう死んだの。那波にも波留にも、もう何もしてあげられない。それに、もし話ができたら期待しちゃうかもしれないでしょ。こんな姿でも那波は私をそばに置いてくれるんじゃないかって。でも、それはたぶん那波を不幸にする。夜次元クジラが言っていたように、私は執着を捨てないといけない」

 留里が「でしょ」と天井に向かって言った。夜次元クジラは姿を見せず、返事も返ってこない。

「留里ママには僕がいるよ」

「それはダメ」

 留里は首を振ると、優しい手つきで波留の輪郭を頭から頬までなぞっていった。洗面所から聞こえていた水の音が止まり、「留里」とつぶやく声がする。

「私ひとりじゃ、どうしたらいいかわかんないよ」

 那波の声は苦しげで、留里がわずかに開いたドアの隙間から洗面所をのぞきこむと、鏡越しに二人の視線が交差した。

「那波?」

 那波は顔を強ばらせ、そして、おそるおそるといった様子で留里の立つ戸口のあたりを振り返る。視線をキョロキョロと彷徨わせたあと首をひねって鏡に視線を戻したが、その表情が再びサッと強ばった。

「……留里、そこにいるの?」

 那波の視線は鏡の中の留里をとらえていた。


次回/41.鏡の中

#小説 #長編小説 #ファンタジー #夜次元クジラ #創作大賞2022

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