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夜次元クジラは金魚鉢を飲む #41
41. 鏡の中
「いるよ、那波。ここにいる」
留里は洗面所に入って那波のすぐ目の前に立った。けれど、那波の視線はキョロキョロとドアのあたりを彷徨うばかりで二人の視線は一向に交わることがない。
「疲れてるのかしら」と、こめかみを押さえて首を振り、那波は鏡を振り返ることなく洗面所を出ていこうとしていた。
「那波、こっち! 鏡を見て。私はここ」
留里の声は那波に届かず、廊下で待っていた波留の前に憔悴した那波が姿を見せる。
「お願い、那波!」
留里の悲痛な声が洗面所から響き、波留が諦めかけたとき耳慣れた電話の着信音が聞こえた。ポケットからスマートフォンを取り出した那波が、画面を確認するなり顔を曇らせる。不審に思った波留が彼女の手元をのぞき込むと、電話は発信者不明のまま通話モードになっていた。
「那波、こっちを見て!」
波留にはその声が二重になって聞こえた。那波の顔が強ばり、手の中から床に滑り落ちたスマートフォンのスピーカーから、また声が響く。
「那波、鏡を見て!」
那波は震える手でスマートフォンを拾いあげると、おそるおそるそれを耳に当てた。
「もしもし」
「那波、私よ」
「私って……」
「こっちに戻って来て。鏡を見て!」
緊張の面持ちで洗面所の鏡をのぞきこんだ那波の目が、驚きで見開かれた。スマートフォンを耳に当てたまま洗面所に戻ると空いた手で鏡に触れ、彼女の目からは涙がこぼれ落ちる。
「本当に、留里なの?」
「留里だよ。那波、会えてうれしい。触れられないのは寂しいけど」
そう言って、留里は那波の頬にある涙の筋に唇をつけた。
「もっと那波と一緒にいたかった。波留と遊びたかった。ずっと一緒にいるつもりだったのに、死んじゃったみたい。ごめんね、那波。大変だったよね」
波留は二人の母親の様子を廊下から見つめていた。さっきから波留の内側を震わせているのは、喜びと後悔と、懐古、慈愛、憂慮、終わりの予感、別離の予感。
ダメなの、と那波が悲しげに首を振った。
「私には無理だったのかもしれない。波留は留里の真似ばっかりしてたもの。私じゃ、波留の気持ちを分かってあげられない。自分のことばっかりで、母親失格」
「そんなことない」つぶやいた波留の声は那波の耳には届かなかった。
「ねえ、那波。那波は、波留のために田辺さんと結婚しようとしてる?」
留里の言葉に驚いた様子で、那波は「どうして?」と、目を見開いてかつてのパートナーを見つめた。洗面台の棚には田辺専用の一角ができ、整髪料にシェーバーが置かれ、歯ブラシは波留や那波のと同じメーカーの色違い。ここは留里のいない時空だ、と波留は突然痛感した。
「那波の本当の気持ちが知りたいの。そのために私はここに来たんだから」
リビングからは田辺の声も克樹の声もせず、代わりにバラエティー番組か何かの笑い声が時々半開きのドアから漏れ聞こえていた。那波と留里と三人で、この海の見える家で暮らせていたら――そんな不毛な想像が波留の頭を過る。
「那波は、あの人のこと愛してる?」問いかける留里の表情は思いのほか穏やかだった。
「……うん。留里と同じくらい、大切に思ってる。あの人、私といたいって言ってくれたの。波留の父親になりたいって。でも、私たちが身勝手だった。波留にとっての親は私と留里だけなの、きっと」
那波は涙をこぼしながら鏡に手を這わせ、留里がその手に自分の手を重ねて淡く微笑んだ。
今の自分では那波を不幸にしてしまうと留里が言った意味が、波留にもわかった気がした。二人の関係は留里が生きている座標に縛られ、互いの体に触れられないことがまるで課された罰のようだ。再会の喜びよりも後悔と悲しみが二人をひとつにしている。
留里が鏡に向かって深い笑みを浮かべ、別れを覚悟したのだと波留は悟った。
「那波。波留にもちゃんとそう伝えてあげて。波留は、自分のせいで那波が結婚したくない人と結婚しようとしてるって思ってる。那波が男の人を好きになるなんて想像できなかったのよ。ね、波留」
留里が廊下に立ち尽くす波留に手招きした。那波は困惑顔で洗面所の入り口を見たが、波留は自分の姿が那波に見えるかどうか自信がなかった。ここにいる自分を見つけてほしいと思う反面、三次元を捨てた罪悪感から見つけてほしくないとも思う。洗面所に入っておそるおそる顔をあげると、鏡を通して呆然と波留を見つめる那波と目があった。
「波留……? 学校に行ったんじゃ」
那波は鏡を頼りにドアの脇に立つ波留に手を伸ばしたけれど、その手はことごとく空をつかむばかりで、ため息をついて鏡に映る波留に手を伸ばした。
「波留、そこにいるの?」
「いるよ。僕の声聞こえる?」
波留の声はスマートフォンを通じて母親の鼓膜を震わせ、那波は娘を取り出そうとするように鏡を叩く。
「波留、いるなら出て来て。どうしてそんな……」
「僕、留里ママのところに行こうとしたんだ。僕がいなくなれば、那波ママが結婚する必要ないと思ったから」
「いなくなるなんて、そんなこと言わないで。今どこにいるの? 無事なの? 留里を失ってあなたまでいなくなるなんて嫌。波留は留里と私の子どもなんだから」
うつむいた那波の目から洗面台にポタポタと涙が落ち、波留は那波の肩に手をかけようとしたけれど何の感触もないまますり抜けるだけだった。もどかしくて握りしめたこぶしは、肉体があれば爪が食い込むはずなのに、今はまったく何も感じられない。
「四次元は諦めるのか?」
不意に、夜次元クジラの声が頭上から降って来た。波留と留里が天井を見上げると夜次元クジラがぬっと顔を出し、那波は二人の視線を追って天井を見上げたあとハッと気づいて鏡の中に目をやった。
「夜次元クジラ……」留里と那波の声が重なった。
夜次元クジラは「狭いな」とつぶやくと、体をくねらせて鏡の中へ泳いでいく。尾ビレまですっぽり鏡に入ってしまうと、まるで潜水艇の窓から海をのぞくような景色が鏡の中にできあがった。
青く澄んだ海は上から光の筋が差し込んでキラキラ光っている。その海は遥か遠くまで続いているように見えるけれど、泳いでいるのは夜次元クジラだけで遠近感がつかめない。居心地を確かめるように夜次元クジラはぐるりと円を描いて泳ぐと、波留たちと真正面から向き合い汽笛のような声で鳴いた。まるで、三人でクジラの水族館に来ているようだった。
「これは、夢?」
那波が口を半開きにして呆然と夜次元クジラを見つめていた。
次回/42.時空交差点
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