夜次元クジラは金魚鉢を飲む #32
32. 最期の会話
黒い霧が晴れるようにサアッと闇が引いてしまうと、見たことのある景色が広がっていた。VR絵本『夜次元クジラ』のワンシーンだ。宇宙空間にポツンと一人で浮かんでいるような、上下左右三六〇度の星空。
『星は、それを星だと信じているから夜には星がある。』
遠くから近づいてきた文字列は、波留の右から左へゆっくりと通り過ぎていった。夜次元クジラの鳴き声は汽笛のようで、遠ざかる文字列は宇宙を旅する列車。
「……は、それを、……だと、……じているからぁ……」
小さな子どもの声と、クスクスと笑う大人の声。
「波留はまだ漢字読めないね。留里ママが読んであげる」
「星は」とすぐ耳元で留里の声がした。背中に感じるぬくもりは留里のもので、懐かしい留里の匂いがする。
「ママ、どういういみ?」幼い波留が聞く。
「波留はどういう意味だと思う? あっ、ほらほら。クジラさんが泳いで来たよ」
くじらさんだ、と波留はパチパチと手を叩いた。
「ねえ、波留。波留にはキラキラしてるのがお星さまに見える?」
「うん! お星さまの中をクジラさんが泳いでる!」
ウフフ、と留里の楽しそうな笑い声とともに、波留は自分の頬が大きな手で包まれるのを感じた。あたたかくて、やわらかくて、ずっとこうしていたいと思う。
「留里、ちょっといい?」
どこかから聞こえてきたのは那波の声だった。波留はヒョイと持ち上げられ、背中からぬくもりが消える。
「波留、ちょっと一人で待っててね」
「やだあ」
誰かの手でWIZMEEが外されると、波留の後ろに那波が立っていた。留里の姿はなく、座布団にあぐらをかいて座っている波留のハーフパンツからのぞく足は白くすらりとして、さっきまでの幼い波留のものとは思えない。襖で仕切られた畳敷きの部屋には小さな床の間があり、昇龍の掛け軸が飾られていた。
「こら、波留。せっかくおじいちゃんの家に来たのにまたWIZMEEやってる」
「夏休みの宿題やってたの。絵はヴァーチャルでもいいんだから」
座卓に放り出されたコントローラーを見て、「嘘言わないの」と那波は呆れている。彼女の手の中のスマートフォンから、「ハロー、波留?」と聞こえた。
「留里ママから電話よ」
その言葉を聞くなり、波留は那波からひったくるようにしてスマートフォンを受け取った。
「留里ママ、どうして電話なの? 顔見えない」
「ごめん。那波と話してる途中に接続悪くなったから音声に切り替えたんだ。そうそう、波留の誕生日プレゼントこっちで買ったから、楽しみにしといてね」
フフ、とスピーカーから笑い声が聞こえた。
――あの日だ。
小学五年生の夏休みのあの日。スマートフォンを手に波留は笑っているけれど、体の内側にいる十四歳の波留は息苦しくて仕方なかった。このあと留里の身に何が起こるか知っているのに、波留の口からは宿題の話や焼き肉に出かける話しか出てこない。
――留里ママ、飛行機に乗らないで。僕の誕生日に間に合わせて帰って来なくていいから、そこにいて。予定通りの便なら地震にはあわない。あの列車に乗らないで。
いくら心の中で叫んでみても、波留の口から出るのはどうでもいい軽口ばかりだ。
「じゃあ、明後日。お土産楽しみにしてる」
「楽しみにしてて。波留、絶対驚くから」
「驚く? 何くれるの?」
驚くのはプレゼントではなく留里の一日早い帰国だと知っている。でも、そんなサプライズは欲しくなかった。
留里は「内緒」と電話を切った。これが、波留と留里の最後の会話だ。通話を終えた波留がスマートフォンを返すと、那波はホッとした顔で「良かった」と息を吐いた。
「姫路に来てること、僕が留里ママに話すと思った?」
「別に話してもいいんだけどね」那波は取り繕うように笑ってみせる。
留里のいない間に内緒で実家に波留を連れて来たことを、那波は気にしているようだった。留里は両親と縁を切っていて、波留を実家に連れて行くことができない。留里はそのことを気に病み、「おじいちゃんとおばあちゃんに会わせてあげられなくてごめんね」と、いつも波留に謝っていた。
「電話より直接のほうが話しやすいし、留里が帰って来てから話そう」と、那波は自分を納得させるようにうなずいている。
「那波ママも留里ママもそんなに気を遣い合わなくていいのに。僕は留里ママの方のおじいさんやおばあさんに会えなくても全然気にしないよ。女同士だからって理由で結婚反対した人たちに会いたいとは思わない」
「そんなふうに言わないで。波留が気にしなくても留里は気にしてるんだから」
「でも、だからって那波ママがここに来るのを遠慮するのはおかしいよ」
わかってる、と那波は諭すように波留の頭をなでた。
留里が姫路に来たがらない理由は他にもあった。叔父の克樹は祖父母の家からほど近い場所に住んでいて、波留たちが来ていると知るとフラッと顔を出した。けれど、留里が克樹と親しく話していたという記憶が波留にはない。波留が克樹と話していると、留里は少し離れた場所でいつもぎこちない笑みを浮かべていた。
克樹が結婚して子どもが産まれると、留里は明らかに克樹に会うのを避けるようになった。姫路に行く時も「仕事あるから二人で行ってきたら」と言ったり、三人で訪ねても一人先に帰ったりした。
留里と克樹の遺伝子を受け継いで波留が産まれたのは疑いようのない事実だ。波留は妊娠中の留里の写真も見たことがある。けれど、波留の外見はまったく留里とは似ていない。
留里が死んで四年近く経ち、もしかしたら留里は孤独だったのだろうかと波留は考えるようになった。那波の実家である嶋田の人々の中で疎外感を感じていたのかもしれない。留里本人の実家に関しては完全に疎外された状態だった。
那波がよく、波留の性格は留里似のアーティストタイプだと言っていた。あれは留里を気遣って言ったことだったのかもしれないけれど、波留は本当に自分が留里に似ていると思っていた。誰も分かってくれなくても留里なら分かってくれる。小さな頃からそう感じていた。だから、留里が孤独を抱えていたのだとわかる。
もしあのとき姫路に来ていることを留里に伝えていたら、もし波留が叔父似ではなく留里似だったら、もし留里の孤独をあの頃の波留が理解していたら。
小学五年生の波留の中で、十四歳の波留の心に止めどなく後悔が湧き上がってくる。
「今度は留里ママも一緒に来よう」波留の口がそう言った。
「そうだね」
那波はうなずいてギュッと波留を抱きしめる。飛行機に乗らないで、と波留は那波の胸に顔を埋めて念じた。意味がないとわかっていても、祈らずにはいられなかった。
次回/33.繰り返す時間
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