夜次元クジラは金魚鉢を飲む #16

クジラリンク(ターコイズブルー)


16. CONAの人たち


 シンが階段を下りても一階のショップに客がいる気配はなかった。開け放したドアからの風が店頭に掛けられたCONAオリジナルティーシャツを揺らし、壁際はカラフルなグッズが並んでいるものの、中央には木製のテーブルとベンチが置かれているだけの広々とした店内だ。正面は総ガラス張りで、海岸道路を挟んですぐ向こうに海が見えていた。

「シン、勇がこき使ってごめんね」

 階段下の奥まった場所から聞えてきた声は、海斗の母親、美羽のものだった。シンが手摺に手をかけてヒョイとのぞきこむと、スクレーパーでサーフボードのワックスを剥がす彼女の手元で汚れたワックスがくるくると花のような形を作る。

「いつも世話になってるの、こっちだから」

 シンが言うと、美羽は手を止めて「サンキュ」と大きな口に笑みを浮かべた。年はシンの母親と変わらないし、シンの両親も海斗の両親も夫婦で仕事をしているのに、シンの目から見るとその関係性はずいぶん違う。シンの母親は三年前に体調を崩したのを機に仕事を辞め、リハビリがてらシェ・マキムラの事務をするようになったのだが、ふと思い返せしてみるとシンへの期待が過剰になったのはその頃からだ。

「シン、降りてるのか?」

 勇気に呼ばれ、シンは美羽に手を振って暖簾をくぐった。厨房では腕まくりをした勇気がハンバーグを捏ねているが、大きな銀色のボウルは赤ちゃんがすっぽり入ってしまいそうな大きさだ。その横にキャベツがゴロンと置かれている。

「勇さん、キャベツ切ったらいいの?」

「ああ。それと、ジャガイモと人参。それから」

「ストップ、ストップ。とりあえず今言ったの終わらせる」

 店内と違って厨房はずいぶん手狭で、通路は男二人すれ違うのがやっと、その通路をはさんで作業台とシンク、冷蔵庫にオーブン、戸棚などがギュッとパズルのように詰め込まれている。

 暖簾の脇にかかった青いエプロンをつけ、シンは作業に取りかかった。キャベツを千切りにしたあと、ピーラーでジャガイモの皮を剥いていく。いつからCONAの手伝いをするようになったのか正確には覚えていないが、シンがシェ・マキムラを継ぐことに疑問を持たなかった頃からなのは確かだ。

 ストン、ストンとまな板を打つ包丁の音を聞いていると、シンは心地よい安心感を覚える。海では地球や宇宙すべてと一体になって自分の存在がぼやけるような感覚があるけれど、包丁を握っているときは今ここに確かに自分が存在するという真逆の感覚がある。

「そういえば、シン。隣の波留ちゃん、帰るのがいつも遅いみたいだけど何かサークルやってんのか?」

 シンは手を止めずに勇気の方を見た。

「サークルってわけじゃないけど、学校に残ってる」

「うちのバカ息子が中学のときは、波があればすっ飛んで帰って来てただろ。サークル入ってたら波留ちゃんくらい遅くなるもんなんかなあと思ってさ」

「サークルによるんじゃない? 天体サークルとかだと夜中に集まったりもするらしいよ」

「でも、波留ちゃんはサークルじゃないんだろ?」 

「そうみたいだけど」とシンが語尾を濁すと、勇気はフウンと唸っただけでそれ以上詮索しようとはしなかった。

「勇さん。さっき隣の家で撮影してるの見かけたんだけど、何か聞いてる?」

「ヨガ教室を開くらしいからそれじゃないか? 俺もチラッと見た。ああいう格好すると波留ちゃんってやっぱり女の子だな」

 なあシン、と勇気は口元をニヤつかせてシンを見た。

「勇さん、言い方がやらしい。ヘンタイ」

「波留ちゃん見てドキッとしただろ?」

 別に、とシンはムキになり、勇気はその反応を面白がってケラケラと笑った。こういうところは海斗とそっくりだ。

 勇気は捏ねたハンバーグ種をタッパーに入れて冷蔵庫にしまうと、シンの手元をのぞきこんで「茹でてマッシュな」と言い、自分は椅子に座ってコーヒーのマグカップに口をつけた。

「勇さん、あの撮影に来てたオッサン、波留んちに泊ってるってホント?」

「オッサン? ああ、そういえば美羽がそんなこと言ってたな。何日か前から男の人を見かけるって。シン、気になるのか?」

「海斗が変なこと言うから」

「変なこと?」

「そのオッサンが波留の母親狙ってるんじゃないかって」

 ハハン、と勇気が鼻で笑う。

「変なことでも何でもないだろ。波留ちゃんのお母さんが恋愛したって別におかしいことじゃない」

「そうだけど、でも」

「でも?」

 シンは一瞬ためらい、周囲をうかがって誰にも聞かれていないことを確認すると「前は同性婚だったって」とひそめた声で言った。口にしてしまってから罪悪感が広がっていく。勇気は面食らったようにパチパチと瞬きし、その事実をどう咀嚼するか考えているようだった。

「勇さん、やっぱ聞かなかったことにして。俺が言ったって思われたくないし」

「そりゃあ、ペラペラ喋ったりはしないけど。一回目の結婚が同性同士だったからって、二回目が同じとは限らないだろ。ここらへんは同性親家庭が少ないからピンと来ないかもしれんけど」

 コーヒーを飲み干して椅子から立ち上がった勇気は、「で、シンは波留ちゃんのどういうところが気に入ったわけ?」と、ねちっこく肩をもんでくる。うるさいよ、と返しながら、父親の手が自分に触れたのはいつだっただろうとシンは考えたけれど思い出せなかった。


 勇気の手伝いを終えて一時間ほど海斗と過ごし、シンがCONAを出る頃にはずいぶん暗くなっていた。

 波留の家の前にはワンボックスカーが停まったままになっていて、シンは門のところからそっと波留の家の庭をのぞき込んだ。窓はカーテンが閉まっておらず室内の明かりが庭の芝生を照らし、夕方見かけた大人たちが窓の向こうで楽しげに笑っている。

 波留の姿を探そうとシンが首を伸ばしたとき、窓辺に小柄な女性の影が現れた。それが波留と気づくまでに間があったのは、逆光で見えにくかったのと、絶対学校に着てこなさそうな服を身に着けていたからだ。水色の、袖口が大きく広がったワンピース。シンが波留だと気づいたときには、波留もシンの姿を見つけたようだった。

 手を振るべきか、逃げ出すべきか。シンが固まったまま考えていると、波留はシンを指さして室内の人たちに何か言った。窓に寄ってきた大人たちが、手を振ったり会釈したりする。シンも慌てて頭を下げたけれど、波留は背を向けてどこかへ行ってしまい、そのあとすぐガチャと音がして玄関から現れた。

 サンダルで駆けてきた波留は、「助かった」とシンの手を引いて外灯に照らされた道路を渡りはじめる。


次回/17.マリンスノーの夜

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